第3535日目 〈秋の古本狂詩曲[総括篇];告白療法の実施と、理解ある配偶者を持つということ。〉 [日々の思い・独り言]

 熟慮と衝動が渾然としたわが秋の古本祭りは、ここにつつがなく終了する。注文した本は概ね届き、すべて開梱されて部屋へ運ばれ、廊下の一隅に積まれた。これをどう読み、どう仕舞うか、いよいよ現実的に考えねばならなくなった時期の訪れである。仕事がなければこのまま年末年始まで、読書三昧の日々を送れるのに。
 さて、〈秋の古本狂詩曲〉と戯れに題した本シリーズも、本編5編、番外編1編、総括編1編を以て本日完結する。今回の総括編は、いやあまり期待しないでくれ、ただの購入した本のリストに過ぎぬわけだから。しかも、これまで話題にした古本は省くのだから(無理でした)。
 顧みればそれは今年の夏、「日本の古書店」で徳富蘇峰『近世日本国民史』全巻揃いを見附けたことから始まった。本編全100巻を指して「全巻揃い」というのではない。時事通信社から戦後に復刊、刊行された『近世日本国民史』は第100巻で完結後、平泉の手に成る付録として全100巻の総索引と地図や各家系図など収めた付図、計2巻が別巻として刊行されている。その2巻を斯く全冊揃いは数々の店で売られているが、別巻をも備えた完全な全巻揃いはそう滅多に売りに出されることはなく。
 その滅多にない全102巻揃いが、関西の或る古書店にて10,000万円近い値で売られているのを見附けたときは、歓喜とか驚愕とかよりも、後悔と諦めの溜め息が思わず洩れた。そのとき、そんな大金は私的口座にプールされていない。様々金策を考えてもどれもこれも現実性に乏しく、おまけにわたくし自身の医療費も嵩んできたから、その店で2冊か3冊買って12月まで取り置き願えぬか交渉するよりない、とまで考えた。まぁ結局、臨時収入が出版社からあったのでそれの一部を『近世日本国民史』の購入に充てたのだが、それでもまだ軍資金に余裕はある。
 ──この根拠不明な自負が、〈秋の古本狂詩曲〉を加速させた。以前から購入を考えては諦めしていたもう1つの揃い本たる岩波書店版旧新約聖書註解書全20冊を購入。引き続き、20代の頃購入した端本が未だ書架の片隅にあるような気がしてならぬ『折口信夫対話』全3冊を、アニタ・ルース『殿方は金髪がお好き』を、山田朝一『荷風書誌』を、小川国夫『王都』と利沢行夫『光と翳りの季節 小川国夫の世界』を、ピエール・ルイス『紅殻絵』を、上坂冬子『愛と叛逆の娘たち』を、海老澤有道『日本の聖書 聖書和訳の歴史』を、ヤロスラフ・ペリカン『イエス像の二千年』を、みすず書房版小山清『小さな町』を、うん、神坂次郎描く南方熊楠ではないけれど、「討ち死にじゃあっ!」と内心叫びながら、購入ボタンを押したり、お店のレジへ運んだねぇ。
 言い訳するわけジャないけれど、僕は必要な本を買ったんだ、僕は読みたい本を買ったんだ。ただそれだけさ。誰からも白い眼向けられたり、怨嗟の言葉を聞かされる謂われはないさ。……(小声で)そうさ、ないのさ……。
 でも、1人だけ、それをする資格のある人がこの世には居るのだ。勿論、奥方様である。流石に出逢って22年が経過しているとあっては夫の性格もすべて掌握済みの人ゆえに、その態度、その言葉に険はない。そんな風に思うてもいないであろうことは、常の態度と言葉からじゅうぶん承知している。それがために、なにげなく放たれた一言に傷つくのだ。
 そう、彼女はこういったのだ、「あなたの部屋には入りたくない」と。
 夫婦仲が冷えこんだわけではない。先月までは掃除もしてくれていた。なのにいまは、部屋に入りたくない、という。即ち、獣道が出現したせいである。かつては掃除機を抱えて歩きまわるスペースの余裕が、そこにあった。現在、それだけのスペースをそこに見附けるのは事実上不可能に等しく、またそれだけのスペースを確保するための作業は容易でない。哀れである。滑稽である。空しいばかりである。コヘレトの言葉である。
 その獣道あるがゆえに入りたくない、と奥方様はいう。なんと正常な感覚であろう。わたくしは奥方様の均衡取れた常識人ぶりを愛する。今夕北関東を震源とする地震がこちら横浜にも及んだ際(2022年11月09日17時40分頃、震源茨城県南部)、部屋で物音がしたとて見にいってくれた点に、その報告を写真付きで送ってくれた点に、わたくしは奥方様の愛情を感じる。まこと、趣味の世界に散財する者は理解ある美しき奥方様を持つのがいちばんの幸せと、噛みしめたのである。
 さて、それにしてもあの多量に増殖した本、本、本、を、いったいどうやって(どこに)収納しようか。娘があちこち歩き始める前に、この根深き問題を解決しなくては。◆

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