第3551日目 〈大瀧啓裕『翻訳家の蔵書』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 残り3ページをなにに使うか迷っていた抜き書きノート、2冊目が先程終わった。新しく読んだ本からの抜き書きではなく、6年前の刊行時に読んで爾来何度となく読み返してきた大瀧啓裕『翻訳家の蔵書』(東京創元社 2016/12)から、読解力を中心とした抜き書きになっていた。
 読解力を養い向上させるには昔からいう、読書百遍義自から見(あらは)る、にすべてが込められており、本を読み馴染んだ人なら誰しも何度か経験あるだろう繰り返し読み耽る行為が、読解力を養う土台になる。流し読みや速読に馴れた、それが常態となった人は意識してか無意識に読み飛ばしなどして折角の読書という行為を、量を消化するだけのものにしてしまっている。
 著者は翻訳家なので上記読解力の文章も翻訳に絡めての話になっているが、読解力の優れた人になるためには、頭のなかに蓄えられた正誤、判別不能の情報を精査して知識に昇華させる必要が、まずある。その知識を基にして、精確にその内容を理解すること、誤訳や翻訳もどきを看破することが読解力の発揮となり、総じて駄目なものは早々に見切りを付ける。
 一方で読解力に欠ける人が翻訳書を読むと、自分でもどうにかわかる内容の本が、自分に理解できるレヴェルの日本語で綴られた訳書を「優れた翻訳」と称揚し(ゆえに誤訳や解釈違いの訳語を見抜くことはおろか、疑問に感じる余地もなく素通りする)、理解できない内容と文章の訳書については「翻訳が悪い」と曰うて己の無知蒙昧を満天下に曝す羽目に。Amazonのレビュー覧に時折出没するのがこの類である。
 これは恐ろしい本だ。殊読解に絞って読むと、読み手を震えあがらせる。聖書読解の面からアプローチして感ずる箇所を抜き書きしているうち、次第次第にわが身を顧みて反省を促され、ふと読書感想文の執筆や聖書読書ノートブログの再開を躊躇わせる瞬間もあった。お前は本当にその本を読めているのか、咀嚼して十全に理解できたのか、と心の声が囁きかけてくる。
 「読み返すたびに新しい発見がある」──これは自らの読解力の欠如を告白したに等しい文言である。6年前に本書を読んで以来、自らに使うことを厳に禁じた文言である。しかし、書かずとも、いわずとも、自然と浮かんでくる気持でもある。
 否、すくなくとも古典に関してはそうではあるまい。そんな抵抗の言葉を残して筆を擱く。◆


翻訳家の蔵書 (キイ・ライブラリー)

翻訳家の蔵書 (キイ・ライブラリー)

  • 作者: 大瀧 啓裕
  • 出版社/メーカー: 東京創元社
  • 発売日: 2016/12/21
  • メディア: 単行本




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