第3586日目 〈今日は昨日の続き、明日は今日の続き。その影に埋もれる無くなりつつある生活の古典について。〉 [日々の思い・独り言]

 年齢を重ねると、新しい年を迎える、もう今年も今日で終わりだ、という実感は薄れてゆく。今日は昨日の続きであり、明日は今日の続きである。
 若い頃はそんな風には思いませんでした。12月31日は12月30日の翌日という意味しか持たず、01月01日は12月31日の翌日でしかない。ただ年が改まるから……今年から来年へ、去年から今年へ……、なんとなく区切りになっているだけのこと。とはいえ、地元の神社に参詣して、おせちを食べて、年賀状を見て、等々正月にやるべきことは当然やりますけれどね。
 子供時代のように祖父母の家に親戚一同が集まることがあれば、大晦日やお正月の意識も多少はされて胸も弾むのだろうけれど、そんな年来の習慣を継続できている<家>が果たしてどれだけあるのでしょう。晦日──30日に仏壇から位牌や写真をおろして綺麗にし、神棚をおろして神宮や氏神のお札を新しくして注連縄をさげて、台所の竈神のお札を取り替えて幣をささげるなどする<家>が、一体いまの世にどれだけあるだろう。晦日の内に松飾りを立てて、一夜飾りにならぬよう注意している<家>がどれだけあるか。
 コロナに見舞われるずっと前から、この国からそんな風習は消えてゆこうとしている。ないことを当たり前に捉えて生きる世代がこれから増えてきて、あの愉しい風習もかれらには廃れた歴史の一コマになるのでしょう。が、──それは果たして仕方のない話なのか。
 20世紀末に某鉄道会社のCMからブームと化した「Discovery Japan」に加えて、21世紀に入ってから顕在化したグローバリズムと、嫌韓ブームがトリガーとなって湧き起こったピンボケしたナショナリズム、そうしてインターネットの普及が後押ししたCool Japanが一体となって生まれた「日本ってこんなに素晴らしい国なんだぞ」ムーブメント。
 それらによって日本の習俗習慣が新たに着目されるようになったとはいえ、ひとたび失われた民俗はもはや生活の古典として再生することはできません。できた/できる、というのは単なる錯覚で、表面的な部分の再現でしかなく、それを連綿と培ってきた人びとの記憶や伝統、技術や知恵までが受け継がれたのではないのです。
 幸いと明日は元日、生活の古典としての民俗がまだ生きている時季となりました。だらだらとスマホやテレヴィで時間を無為に浪費するのではなく、どのような習俗習慣がかつての日本にはあり、生活の古典を体験して継承していったのか、知る機会になれば良いと思います。そうすれば、今日は昨日の続きであり明日は今日の続きというなかに、忘れられてしまった日本、失われようとしている日本の姿を、その一片なりとも見附けられるのではないでしょうか。
 この時季になると家に閉じこもるせいか、ここに書いたような、われらの先祖が伝えてきた祭事や風習などが消えてゆこうとしていることに淋しさを覚えて、めずらしく民俗学の文献やフィールドワークの記録など繙いて倩考えこんでしまうのであります。

 ……おかしいな、ベーム=BPOのブラームス交響曲第2番を書こうとしていた筈だが?◆

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