第3598日目 〈森銑三『落葉籠』を読んでいます。〉 [日々の思い・独り言]

 中公文庫から出た森銑三の『落葉籠』上下2冊揃を見附けて、矢も楯もたまらず買いこんで連休の朝から読んでいる。まとまった時間を用いての読書というよりは、生活の諸事の合間にできた時間を使って、少しずつ読んでゆくのが良い書物。実際、炊事掃除洗濯の間に読んでいる。
 かつて『日本古書通信』に連載された随筆を著作集を底本にして、2009年5-6月に文庫化された。文芸史的には無名の作者たちが遺した作物から逸話を紹介するのみならず、書物に残された誤謬を正したり見向きもされない書物の紹介が専らで──要するにいつもの森銑三の作物なのだ。
 文庫裏表紙の惹句に云う、「中世から明治期にいたるまでの膨大な古書から、落葉を集めるかのごとく無造作に書きとめられた逸話、蓄積の数々」(上)、「市井の古書研究者として名高い森銑三が、有名・無名を問わず人物、書物に関する該博な知識を披瀝していく」(下)、と。
 まるで関係のない話であるが、いま「ぶんこうらびょうし」を変換したら、最初に「分校等病死」となったのは、いったいなぜだ? ──元に戻す。
 パラパラ読んでいるうち、これは衝動買いして然るべき良き買い物と思うた。ふむふむと頷いて得心したり、未知のことを知る愉しみを味わったり、ともすれば全ページから抜き書きするか付箋を付けまくるかという具合だ。
 殊下巻にある「噺本について」の一節には、思わず吹き出しそうになると共に学生時代の教師の言を思い出して首肯し、翻ってそれではいまのわたくしは……と考えさせられてしまった。森氏の曰く、「国文学専攻の人々は、どうして笑話という好題目に対して無関心なのか、訝しく思っていた」(P72)云々。ここでいう「笑話」とは江戸時代の諷刺や猥談、滑稽談などまとめたもので、中期から幕末明治にかけて読まれた。
 学生時代の教師の言を思い出した、というのは、近世文学の教師で3年以上芭蕉『おくのほそ道』しか講義しなかったのが、或るとき、こうした笑話に話題が及んだ際「庶民の生活や社会風潮など知るには便利で読んでおいて良いんでしょうが、ぼくは読む気はしませんね。なんといっても馬鹿らしい」と、しれっ、といったことである。
 一方で中古中世文学を講じられた恩師は、「あれは面白いよね。民衆の生活ぶりがわかるだけじゃなくって、当時の人たちがどんなことを笑って過ごしたのか、それを取っ掛かりにして何百年もむかしの人たちが急に親しみある人たちに感じるんだよ」と仰った。この方が狂言を専門とされていたことが、斯様なお話になったのだろうと思う。
 下巻「噺本について」や続く短文を読みながら、そんなむかしのことを思い出した。
 『落葉籠』の感想文を書くのはなかなか難しいが読了して、書けると思えるようになったら筆を執ってみたい。◆

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