第3623日目 〈その読書は分断ではなく、連続であった。〉 [日々の思い・独り言]

 一人の人間の死は、遺された者の生活に大きな影響を及ぼす。一時的であれ、恒常的であれ。誰もこの弊からは逃れられない。その人が当事者として処断する立場であるならば。
 然り、わたくしも例外ではない。実務的なところで云えば、経済は停滞し、打撃を被り、緊縮財政を断行し、この2ヶ月を過ごした。おそらく秋まで、現在の状況は続くだろう。段階的緩和はされてゆくが、緊縮財政の解除宣言は秋まで待つことになる。
 人の死はこれまで漠とは知っていても、その実態や諸般の手続等について実は僅かも知らなかった事柄のあることを痛感させる。それを片附けなくては前に進めないこともあり、主体的に行う者は右往左往しつつも公的機関や人の手を借りて、どうにかこうにか作業を進めて、終わった時はグロッキー状態で呆とした時間をしばし、過ごすことになろう。
 が、誰しも1日中それに携わって過ごすわけではない。そんなこと、あってたまるか。かならず息抜きというか、死に遭遇する前の自分自身に刹那ながら還る時が、ある。具体的にいえば、趣味:読書の人は、事務手続や書類記入、それにまつわる電話やメール、チャット、SNSでの質疑応答で日中宵刻を過ごしたあと、食事や入浴を挟んで、僅かの時間ながら読書に耽る。そうすることで、どうにか精神の均衡を(無意識に)図るのだ。
 然り、わたくしも例外ではない。読む本の傾向は従前と異なるところありと雖もこの2ヶ月間の読書は濫読の極みである。昨日はその一端を、専ら、医療・医学・心理学の方面からご報告した。が、人間は新たなジャンルによつてのみ読書を行ふに非ざるなり。本道に戻る場合もあるのだ。
 では、これまでのなかで本道と云うべき読書はなんであったか。誰の、なんという本が該当するか。つらつら顧みて数えてみても、案外と数は少ない。記憶のみを頼って、文学と歴史(とその周辺)に的を絞って列記すれば、──

 村井康彦『藤原定家『明月記』の世界』(岩波新書 2020/10)
 杉本圭三郎全訳注『平家物語』全4巻(講談社学術文庫 )
 三鬼清一郎『大御所徳川家康 幕藩体制はいかに確立したか』(中公新書 2019/10)
 
──くらいしか思い浮かばぬ。いや、マジで。加藤恵嬢ではないが、「なんだかなぁ」である。
 が、数こそ少なく、時間も細切れとはいえ、前述の実務を終えて為すべき事を終えた後に襲い来たる──ひたひたと心を蝕んでくる悲しみや淋しさ、未来をしかと思い描けぬ孤独に呑みこまれぬようこれら従前よりの趣味に基づく読書を以てそれを知らず退けてこられたのは、望外の幸い事であった。すくなくとも当事者たるわたくしは斯様に確信しておる。
 いずれも以前に購入したまま棚差しして放っておいた本である。杉本『平家物語』はともかくとして、なにか読もう、と思うたときどうしてこれら(村井と三鬼)を取ったのか、己が行為ながら理由は定かでない。アニメ『平家物語』を観ていたからてふ理由はあっても、他に手にしてよさそうな本はあったはずだ。なのに……。わからない。自分を納得させられるじゅうぶんな理由が、どうしても思い浮かばない。これでは犯罪者自ら行う動機分析ではないか。咨!
 と云う戯れ言はさておき。
 唯ここで、村井『藤原定家『明月記』の世界』について理由を推測するとすれば、昨年末あたりに読んでいた萩原朔太郎『恋愛名歌集』が尾を引いているようには思うておる。そこでわたくしは、いまの自分が定家の歌にまったく心惹かれず、却って嫌悪感を著しくしていることを発見した。既にわたくしにとって家人藤原定家は「ないわぁ~」と嘆息するばかりの存在になっており、むしろこれまでは余り真面目に読むことのなかった『明月記』から浮かびあがる、人品やや問題ありな狷介公家・藤原定家に、片時も忘れること能わざる深い魅力を覚えてならぬのだ。
 まァ平たく云えば、組織の論理に振り回されて昇進もままならない不平を、上司の命令に逆らえず行幸に同行させられたりしての愚痴を、日記に書いて鬱憤晴らしする一方、巷間の噂話や事件、風俗、天変地異や天文事象をあくなき筆力と好奇心で書き留める藤原定家という稀有なる俗物に、おこがましくもまるで自分を見るが如き思いがするのですね。なんかこう、定家と秋成は遠い時間の向こう側にいて自分とは縁なき人に思えぬ程親近感を抱くのだ。こんな風に思う歴史上の人物、定家と秋成の他は、エミリ・ブロンテくらいである。
 村井『藤原定家『明月記』の世界』を読もうとしたのは、そうして来る日も来る日も夜は寝しなの一刻、これに読み耽って過ごしたのは本書が、類書のように和歌に拠ることは僅かの例を除いて殆どなく、ひたすら『明月記』のみを拠り所として定家の生きた時代と定家の動向を、その家族や主家を巻きこんで追ったところにある。ヴォリューム的に克明とは言い難いし、新書の内容ゆえに限界もあろうけれど、これをサブテキストの1冊として『明月記』本体に取り組むことも可能である。あの取っ付きにくく手に余る稀有の日記『明月記』へアプローチして深入りしてゆくにあたっては、本書のように「簡潔にして豊か」な1冊を初めの段階で読む幸運に恵まれるかどうかが、すこぶる重要になってくる。自分の経験も踏まえてこの点、特に云うておきたい。
 なお、三鬼『大御所徳川家康』は、大河ドラマに影響されての読書ではないこと、念の為お断りしておきます。もともと家康、好きなんですよ、小学生の頃から。静岡県に育って家康を好きにならんなんて……非県民だと思います(呵呵)。家康の大御所時代と云えばつまり、そのまま駿府城時代といい換えてよい。江戸時代最初期に於ける三大権力の一角である(残る2つは、江戸城と大阪城を指す)。本書を発売早々に購入したのは、家康の大御所時代がそのまま駿府城の時代であること、その駿府城が静岡市の中心を為して子供の頃静岡県民であったわたくしを刺激したこと、この2点を主たる理由とする。これまでコラム以外はまるで読んでいなかった理由については、まァ語るはご勘弁ください。
 この2ヶ月間、読書の主軸はこれまでと変化した。そんななかにあって文学や歴史にまつわる従前の興味に基づく読書が営まれたのは、あの日以前とあの日以後が分断されてしまったわけでなく、細い糸でつながっていたことの証左だ、とわたくしは捉える。即ち、あの日以前とあの日以後の読書は分断されることなく連続していたのだ。村井『藤原定家『明月記』の世界』や三鬼『大御所徳川家康』は、それを確認することができた読書でもあったのである。◆

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