第3637日目 〈萩原朔太郎『恋愛名歌集』を読みました。〉05/12 [日々の思い・独り言]

目次
零、朔太郎の事、『恋愛名歌集』を読むに至った事、及び本稿凡例のような物。←FINISHED!
一、朔太郎が『恋愛名歌集』「序言」で主張すること。←FINISHED!
二、朔太郎、「解題一般」にて本書の意図を語る。←FINISHED!
三、朔太郎の『万葉集』讃美は、時代のせいもあるか?(総論「『万葉集』について)←FINISHED!
四、朔太郎、平安朝歌風を分析して曰く。(総論「奈良朝歌風と平安朝歌風」)←NOW!
五、朔太郎、『古今集』をくさす。(総論「『古今集』について」)
六、朔太郎、六代集を評す。(総論「六代集と歌道盛衰史概観」)
七、朔太郎は『新古今集』を評価する。(総論「『新古今集』について)
八、恋歌よりも、旅の歌と海の歌?(万葉集)
九、朔太郎『古今集』選歌に触れてのわが所感(古今集)
十、総じて朔太郎は「六代集」を評価する者に非ず。(六代歌集)
十一、朔太郎の定家評に、いまの自分は深く首肯する。(新古今集)


 四、朔太郎、平安朝歌風を分析して曰く。(総論「奈良朝歌風と平安朝歌風」)
 1;音律
 そも『万葉集』と『古今集』(以後)では音律の切り方が違う。『万葉集』は「5-7・5-7・7」なのが『古今集』では「5・7-5・7-5・2」となる。
 『万葉集』の頃は「枕詞」があって、それは第一句か第三区、上の切り方に従えば5音の来る箇所に置かれ、枕詞の性質上続く7音と結びついて「5−7」のブロックを作った。対して『古今集』の頃になると枕詞がなくなって第一句が(なかば)独立する形になったので、上記の如く「5・7-5・7-5・2」という韻律を持つようになった。最後の「2」は詠嘆、感嘆の助動詞である。
 朔太郎は、この点を指して『万葉集』の五七調は「荘重で重々し」(P195)いといい、『古今集』の七五調は「繊細幽玄の情趣に富」(同)むという。更に続けて曰く、──

 そしてこの律格上の形式的相違は、それ自ら歌の内容たる情趣の変化に外ならない。即ち万葉時代の歌は内容的に雄健で力強く、平安朝以後の歌は主として繊細優雅である。故に一方から考えれば、各々の時代の情操が、各々の表現する必然の律格を作ったので、つまり内容が形式を生んだのであるが、これをまた逆に考えれば、形式の変化が内容を推移させたとも言えるだろう。所詮芸術における形式と内容とは、一枚の絵の裏表、鏡の実体と映像に外ならない。(P195-6)

──と。
 終いの2行(「所詮芸術における」云々)については、実作者としての経験、その蓄積がいわしめた自信と思い切りのある断言と思う。また、内容が形式を決めたとは、折口信夫博士が同趣のことを述べていたと記憶する。それが詩芸術に於ける発言であったか、祭事や祭司といった民俗学方面でのそれであったかまでは、覚えていないが。
 朔太郎は奈良朝歌風と平安朝歌風それぞれの個性、特徴を内容、形式によって自ずと成ったものであり、かりに優劣はつけられても、情操と音楽は交換できるようなものではない、という。長くなるが、引用すれば、曰く、──

 要するに万葉調はリズミカル(拍節的)で、平安朝はメロジアス(施律的)である。したがって前者は独逸音楽のように剛健であり、素朴な力に充ちて地を踏みつけるが、後者は南欧音楽のように優美であり、複雑繊麗な情趣に富んでいる。故にスイートという点では後者が優り、力という点では前者が優る。
 また別の比喩で言えば、万葉音楽は男性的の直線美で平安音楽は女性的の曲線美である。直線美と曲線美と、拍節美と施律美と、そのいずれを好むかは人々の随意であり、各自の趣味によって決定される。もし非難を言い合うならば、それは両方から持ち出せる非難であるから、価値の判決には採用されない。
 ただしかし言えることは、万葉の内容には万葉の音楽があり、古今の内容には古今の音楽が必要であり、この情操と音楽とを、相互に交換できないという一事である。(P197-8)

──と。元は一つの段落であるが、引用にあたり適宜改行した。
 要するに戦前からこんにちまで一貫していわれてきたような、万葉を「ますらをぶり」といい古今を「たをやめぶり」というといっさい変わるところはないのだ、朔太郎の長々しい発言は。

 2;恋歌への『万葉集』と『古今集』のスタンス
 『古今集』の時代(とそれ以後)になると歌人は禁裏に属する天皇、皇族、貴族(殿上人)、女房、その外にあっては僧侶あたりに限定されてくる。換言すれば歌人は過半が禁裏という閉鎖空間に閉じこもってしまったのである。
 斯様に狭い世界へ閉じこもってしまった弊害として、自然詠は(この時代ならではの産物である「題詠」によって)類想類歌の域に留まり、そこから抜け出すことは至難であった。自然を詠ずるにあたって先行詩歌によって培われた固定連想、イデオロギーに囚われて、万葉人のような実感的情趣は、中古歌人の持ち得ぬものとなった。即ち中古歌人は固定連想やイデオロギーまずありきで、歌を詠んだのである。
 自然詠が『万葉集』の方が優るのは、『古今集』歌人、及びかれらを取り巻く時代情勢が支那思想や漢語、漢文調の詞を退けて国粋主義に陥ったせいでもある。朔太郎曰く、──

 それ故に当時の歌壇は、意識的に拝外思想を高揚し、歌における一切の外来要素(漢語、感文脈、支那思想)を排斥した。そして純粋の大和言葉で、純粋の国粋情操のみを歌うところの真の典型的な「やまと歌」「敷島の道」を建てようとした。そしてその結果、歌の用語が著しく制限されて窮屈になり、漢語はもとより拗音や促音さえも除外され、かつ万葉風の剛健な力強さが無くされてしまった。のみならず歌の題材が限定され、単調一律の類型的反覆になってしまった。
 なんとなれば彼等は、純粋の国粋趣味のみを高調しようと意識したため、その歌材の範囲は常に花鳥風月の純日本情操に限定され、春と言えば梅に鶯、夏と言えば藤浪に時鳥、秋と言えば鹿に紅葉の類想のみを、百人一律に反覆するようになってしまった。(P185-6)

──と。元は一つの段落であるが、引用にあたり適宜改行した。
 が、却ってこのことが、中古歌人をして恋愛歌へ向かわせ、曲線的情緒的な大和言葉で男女の恋愛(含性愛)を詠う自在さを備えさせた。たとえ題詠によって詠まれた歌であっても殊それが恋愛歌である限り、かれらには蓄積された経験(値)と感情(よろこび、かなしみ、せつなさ、など)と機微があった。──万葉人にもそうしたものはあったが、直接的素朴な言葉はそれを表現するには強過ぎた。よりしっとりとしてなだらかな調子の大和言葉を得て歌は、恋愛を謳うに相応しいツールとなったわけである。

 3;その他
 「奈良朝歌風と平安朝歌風」末尾、補記となる箇所──アララギ派以後の歌壇が保守的となり、狭義の国粋主義に退嬰しようとしている云々について。
 そのなかに、社会主義歌人がこうした背景から興った、というが、それは具体的に誰を指すか、一派を成したか。要調査。

 本章を読んでいると処々に正岡子規の『古今集』批判を念頭に置いて(脳裏に過ぎらせながら)書いたのではないか、と訝しんでしまう部分がある。こちらの思い過ごしだろうか?

 「総論「奈良朝歌風と平安朝歌風」に限らず『恋愛名歌集』全体を通じていえることだが、朔太郎の、実作者としての目利き、創作態度が古歌鑑賞(=自ずから生じる批判)へ反映している。□

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