第3655日目 〈翻訳、翻案、再話のネタの捜し方。〉 [日々の思い・独り言]

 小説の題材にする話は、自分をよく出せるものを選ぶ。
 ──上田秋成が『雨月物語』を書く直前に訪ねた都賀庭鐘から受けたアドヴァイスである。真偽はさておき、大谷晃一『上田秋成』(P63 トレヴィル 1987/06)にある挿話だ。
 当時秋成は、いわばデビューして間もない新進気鋭の小説家だった。処女作『諸道聴耳世間猿』と続く『世間妾形気』は、井原西鶴によって交流を決定附けられた浮世草子に分類される。が、「和訳太郎」のペンネームで両作が上梓された頃既に浮世草子は、衰退の一途を辿っており、また両作とも浮世草子の枠から逸脱する部分がある、異形の小説だった。詳述はしないが端的にいうて、それらはなにかしらの原因によってわが身を滅ぼしてゆく人々の話なのだった──その面を以てのみして『諸道聴耳世間猿』と『世間妾形気』を〈滅びの文学〉と述べることはあながち誤りとはいえないと思う。
 幼き頃に生母と別れて後、大阪堂嶋の大店の養子になり何不自由なく育つも、養子の自分が跡取りとなることへの違和感を拭いきれずわざと放蕩無頼の生活に明け暮れるなかで、秋成は人間誰もが善悪二元論で括れるものではなく、ちょっとした出来事によって人生を棒に振ったり苦界に身を沈めたり悪に染まってしまうこともある、と肌で知った。それを小説という形で吐露してみせたのが、『諸道聴耳世間猿』と『世間妾形気』だった。
 しかし秋成は、これで満足できなかった。もっと深いところで人間の欲や情念というものへ迫るような小説を書きたい、と執した。
 時は既に、八文字屋に代表される浮世草子が終焉を迎えつつあり、一方で中国の小説を翻案した読本が代わって台頭してきた時代だった。
 そんな或るとき、秋成は都賀庭鐘を知る。同じ大阪に住まって医者を営む庭鐘と秋成の接触が、いつ如何にして行われたか定かではない。高田衛『定本 上田秋成年譜考説』に拠れば、「庭鐘、秋成の具体的交渉の始まった時期は、あきらかではない」(P66 ぺりかん社 2013/04)とのことである。
 庭鐘著す読本小説の代表は、『英草子』と『繁野話』だが、前者は「新編 日本古典文学全集 78」(小学館)で、『繁野話』は「新日本古典文学大系」(岩波書店)で、それぞれ読むことが可能だ。
 どのようにして、題材になる(中国の)小説を選ぶのか?
 庭鐘と面会した折、秋成はそう問うた。それに庭鐘が答えたのが、冒頭の一文である。大谷晃一の本から返答を引けば、「そらな、ようけ読んで、自分の思てることが出せるやつを選びまんのや」(P63)、である。
 この答えを敷衍すれば、目先の面白さに飛びつくことなくじっくりと腰を据えてたくさん読み、そのときの自分のなかにある思いや考えを無理なく表現できる原作に出会う労を惜しむな、ということであり、そのために広く読書するのは当然だとしても、自分の心の内や日頃抱いて表現したく思うている気持を客観的に見つめる努力を怠るな、ということでもあろうか。
 そうやって秋成は、庭鐘のこのアドヴァイスに導かれるようにして中国渡来の白話小説を読み漁り、日本の古典を渉猟して歩いた。やがて物語として結実する元ネタは、その過程で見出されてゆく。一方でかれは同時代の作物にも抜かりなく目を通して就中師加藤宇万伎と同じ賀茂真淵門下の国学者建部綾足が著した『西山物語』に触発され、また自身としても先行二作に続く新しい浮世草子のために用意していたエピソードのための腹案を流用して、いよいよ秋成はまったく新しい物語の筆を執った。「巷に跋扈する異界の者たちを呼び寄せる深い闇の世界」(角川ソフィア文庫版裏表紙より)を舞台にした『雨月物語』がそれである。
 ところでその『西山物語』だが刊行の前年明和四(1767)年、京都一乗寺村で起こった所謂〈源太騒動〉に取材した読み物。これを秋成は随分と批判している。後年の文化三(1806)年、知人を介して渡辺源太に紹介された秋成は同じ年に「ますらを物語」を書いた。それが人手に渡ったゆえか秋成は同事件を素材に舞台と人物を替えて新たに「死首の咲顔[ゑがほ]」を書き、『春雨物語』に収まる。写本によって載る載らないはあるが現在活字で読める版には載るものが過半だ。『西山物語』も先の『英草子』といっしょに「新編 日本古典文学全集 78」で読めるがこの一巻、実は他に『雨月物語』と『春雨物語』をも収録したお値打ちの書物なのだ(本文以外に頭注と現代語訳を備える)。
 ……庭鐘が秋成にしたと大谷晃一ゑがく面会の場面、与えたるアドヴァイス。かりにこれが一粒の想像であったにしても、ひるがえってみればこのアドヴァイス、そのまま近世から近現代に至る間の創作や翻訳、翻案、或いはラフカディオ・ハーンに代表されるような再話にまで、適用させられるのではあるまいか。
 ようけ読んで、自分の思てることが出せるやつを選びまんのや。
 たしか平井呈一もハーンの再話文学を述べたエッセイのなかで、同種のことを書いていたように記憶する(『小泉八雲入門』P75-6, 78など。古川書房 1976/07)。
 ──ここで自分のことを話すのはおこがましいけれど、ちょっとした事情あって中断しているわが「近世怪談翻訳帖」もその例に洩れるものでは断然なく……日頃自分のなかに去来し、或いはふとした拍子に生まれたり記憶する人々の事どもを思うて江戸時代の随筆や小説を読んでいると、これは、と膝を打つような代物に出喰わす。
 シドニィ・シェルダンの”超訳”に対抗して”創訳”なんて呼んでおるが(対抗云々はあくまで言葉の綾と受け止めてほしい)、セレクトして現代語訳する作品はどれも琴線に触れた、その時々で〈自分〉を表出するに打ってつけだった、という意味で一貫性はあると思うている。
 この「近世怪談翻訳帖」も最近新しいものをやろうと企んで、なにかないかな、どれにしようかな、と漁っているうちにまたしても『雨月物語』へ辿り着いた。選んだのは、「吉備津の釜」と「貧福論」。去る五月の連休の中日に遭遇して此方を睨みつける過去の同僚を心中に住まわせて女の情念執着嫉妬怨念を描ききった「吉備津の釜」を選び、ここ数ヶ月で深刻に想い巡らし痛打させられることしばしばであるお金についての管見から「貧福論」を選んだ。現時点に於いては至極真っ当なセレクトである、と思うている。
 「吉備津の釜」については正直、「蛇性の淫」と迷いましたがきっかけとなった女のことなど思うて較べた結果斯くの如くとなりにけり、である。
 菜緒「吉備津の釜」は、貞淑の妻を棄てて愛人に走った夫が妻の怨霊によって愛人もろとも取り殺される話で、「蛇性の淫」は蛇の化身と知らず美しき未亡人と契を結んだ男が執着されてしまう、〈道成寺縁起〉をベースにした話。そうして「貧福論」は蓄財に励む武士と黄金の精霊の間で交わされるお金のこと、貧福についての一問一答を記した話である。
 「吉備津の釜」と「貧福論」、二篇いずれも現代語訳の出来上がりがいつになるか、皆目見当がつかないけれど、散発的な肉体労働の合間合間でテキスト片手に参考文献を引っ繰り返して読み直し、「貧福論」に至っては冒頭部分のみながら既に試訳を始めているのは、こんな気持や経緯があってのことなのである。
 特にこの「貧福論」ね、『雨月物語』のなかじゃあ影の薄い〆の作物だが、商家の主人で常にお金や経済というものと無縁ではいられなかった秋成の胸のうちを窺い知れるような一篇で、わたくしはとても面白く読む。なかでもね、「恒の産なきは恒の心なし。百姓は勤めて、穀を出し、工匠等修めてこれを助け、商賈[しょうこ]務めて此を通はし、おのれおのれが産を治め家を富まして、祖を祭り子孫を謀る外、人たるもの何をか為さん」(角川ソフィア文庫版『雨月物語』P317 2006/07)という条に震えるような共鳴を覚えるんだ。◆

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