第3670日目 〈みくらさんさんか、憲法について独習を始める──9条と96条を取っ掛かりにして。〉 [日々の思い・独り言]

 けっして唐突な流れではなかった。必然性を充分に伴うものだったのだ。6月に読み終えていた青木理『安倍三代』(朝日文庫)のノートを抜き書きしている最中、憲法九条と九六条について知りたいと思い立った。安倍晋三の章を読んでいれば必然であった、と思うている。
 その流れで『ポケット六法 令和四年版』(有斐閣)を繙いて九条と九六条をノートへ書き写し、芦辺信喜『憲法 第六版』(岩波書店)の当該章を読んで抜き書きした。その作業は今日、つい先程終了、いまから30分も経たぬ前。延べ四日にわたる作業で、ノート13ページに及ぶ(最後の1ページは裏表紙の内側、いわゆる表3でだ)。抜き書きというても純粋に引用した(丸々書き写した)箇所もあれば、文章は著者のそれに則りつつ自分なりにまとめた箇所もある。
 どこかに書いた記憶があるけれどたぶんブログではないので堂々と申しあげれば、一昨年あたりだ、大日本帝国憲法及び日本国憲法に関する本(殆ど文庫)をまとめて買い求め、折に触れて目を通すことがあったのは。ただその頃買い集めたものは過半が〈憲法の歴史〉に属しており、伊藤博文と美濃部達吉が解説した文庫と、新憲法公布時に時の内閣や文部省が発行したパンフレットをまとめた文庫が混じる程度(後者は当時、本ブログに感想めいた一文をお披露目した覚えがある)。
 つまり、これまでわたくしが、憲法に関して持っていた興味とは専らその成立にまつわる諸事であり、発議から公布までどのような人たちが関わり、如何なるドラマがあったのか、ということだったのだ。それがこのタイミングで六法を繙き、芦辺信喜の本やもう少し深く掘りさげた解説書に手を延ばしたのは、やはり安倍晋三の「芦辺信喜を知らない」発言が改めて意識の表層に上ってきて、無視できなくなったからである。
 それは2013年03月29日の参議院予算委員会でのことだった。民主党の小西洋之議員が、憲法改正を目指す安倍首相に「憲法学者の芦辺信喜という人を知っているか」と質問した。それに答えた安倍首相の発言が、大いに物議をかもしたのである。曰く、「私は憲法学の権威でもございませんし、学生だったこともございませんので、(芦辺信喜という人のことは)存じ上げておりません」と。
 その答弁を見た首相の母校成蹊大学の恩師が一様に嗟嘆し、難じる様子を、青木の著書は描いている。そのひとり、加藤節の言に曰く、「[芦辺『憲法』は安倍が卒業後に刊行されているが、]しかし[芦辺信喜は]圧倒的なオーソリティーですよ。しかも、憲法改正を訴えているんですから、(芦辺を)『知らない』なんて言うべきではない。まさに無知であることをまったく恥じていない。戦後の日本が、過去の世代が、営々と議論して築きあげてきた歴史を学ぼうともせず、敬意すら持たない。おそるべき政治の劣化です」(P258)と。
 いやしくも憲法改正を是とし綱領に掲げる党の総裁であり、たびたび憲法改正への熱意を見せて口にもしてきた人物の台詞とは到底思えぬ。では、その芦辺信喜の主著であり、こんにちに至るまでアップデートが繰り返されてきた、憲法を学ぶ/憲法について語る際必読必携とされてきた岩波書店刊『憲法』で、安倍が改憲の本丸とした九条と改憲への道均しとして最初に(改正に)着手しようとした九六条を、芦辺はどのように解説しているか。
 そんな好奇心が、『安倍三代』ノートを終えたわたくしを六法に向かわせ、芦辺『憲法』へ誘ったのだ。なお、わたくしが読書と抜き書きに用いた『憲法』は、2015年03月発行の第六版である。現在はまだ第七版が流通しているが、今月8月には第八版が刊行される由。
 既述のように今回は全体の読書ではなく、九条と九六条に絞った摘まみ読みであるから、要らぬ馬脚を現さぬよう務めて話すことにするが、芦辺信喜という人は非常に優れたバランス感覚の持ち主だ。対立する説を紹介するにあたってどちらへ肩入れすることは当然なく、それでも現在の学界の大勢を述べてその話題に(ページの上では)終止符を打つ。
 これによって学習者、或いはわたくしのような専門外の天邪鬼がどんな印象を著者に持つかというと、偏に、「信頼」である。これは信じるに足る本だ、この人の書くものは信用できる。そんな印象を抱くのだ。書き手と読み手の波長もあるだろうが、文章は明解で、誠実だ。学識に裏打ちされて、奥が深い。各種判例への目配りも効いている。まずは本書と、もう少し平易な解説書、もう少し詳細な解説書と、もちろん六法(というより憲法全文を載せたテキスト)があれば、憲法を学ぶ出発点には充分すぎるのではないか。──そんな風に、特定の条文しか読んでいないものでさえ感じてしまうのである。
 元は青木理『安倍三代』の感想文を書くにあたって、就中晋三の章へ触れる際、知識として知っておきたいな、という軽い気持から六法と芦辺『憲法』に手を延ばした。数日を費やして九条と九六条に絞った摘まみ読みと抜き書きを実施して胸にうかぶのは、どうしてこんなに気高く、理想と熱意に満ちた、平和を具現したような憲法(ここでは九条に特化しておりますが)を改正する必要があるのか、という素朴な疑問。
 ときどきの国際情勢や国内事情等によって、細かく点検してゆけば改正が必要とされる条文は確かにあろう。時代にそぐわなくなってきている、というのではない。本当に改正がいまのこの時代に必要なのか、必要であるならばそれはいったいどうしてなのか、改正以外の選択肢はすべて失われたのか、等々充分に、存分に、時間をたっぷり費やして論議を尽くしてからでも遅くはないのではないか、現行憲法の改正を国会で発議し、国民投票を実施して、天皇がそれを国民の名で公布するのは。
 たとえば九条について、少なくともわたくしは、目の前に迫った事態への対応案が合憲かどうかは都度国会で(閉会中であっても)論じ合ったり、必要なときは解散して国民に審判を仰ぐなど、これまで通りで良いのではないかな、と思うております。ガチガチに規定してしまうことは却って、事態への対処が鈍化して足許を掬われたり、手痛いしっぺ返しを喰らう危険性を増すばかりではないでしょうか。
 芦辺信喜は憲法改正の章の終わり近く、「憲法の変遷」の項目でこう書いている。曰く、──

 (憲法も「生ける法」ゆえに規範の意味に変化が生じ、趣旨・目的を拡充させる憲法現実が存在すること自体は問題ではない。むしろ)問題は、規範に真正面から反するような現実が生起し、それが、一定の段階に達したとき、規範を改正したのと同じような法的効果を生ずると解することができるかどうか、そういう意味の「憲法の変遷」が認められるかどうか、ということである。(P399)

──と。
 いまは憲法改正に賛成する人の割合が、反対する人のそれを上回っている時代だ。近年の北朝鮮のミサイル発射実験・核開発や中国の覇権拡大・領海侵犯、昨年2月に始まり現在も続くロシアのウクライナ侵攻(プーチンによる核兵器の使用示唆)が、改憲派のエビデンスとなっている。
 が、わたくしにはそれが、「事態解決(打開)の手段を考えること」、「粘り強く交渉を行ってゆくこと」、「双方合意の着地点を見附ける努力を惜しまないこと」を放棄した連衆の戯れ言に聞こえる。
 力には力を以て当たるべし、なんて武力行使以外の解決策の検討・模索は放棄するに如くはなし、とでもかれらは考えているのだろうか……それこそ戦前の、軍閥が政治の中枢を占めて戦争に突っ走っていったあの時代の再現ではないか。「戦争は人類の知性の敗北である」と誰がいったか忘れたが、現在の改憲派はこれを地でゆく人たちの集合体としかわたくしの目には映らない。
 独断や暴走を止めるための抑止力となっているのが、過去の行いへの反省から生まれた現在の日本国憲法のはずなのだが、それをどうして立憲主義、平和主義の原則をねじ曲げてまで改正にひた走ろうとしていたのか──。
 現行憲法がけっしてGHQからのお仕着せ憲法(押しつけ憲法)でないことは、成立過程を知れば瞭然だ。なのにどうしてそれに目を瞑るような真似をして自分たちに都合のいい改憲を実現させようとしたのか──。
 憲法の救いは、安倍政権がモリカケサクラ疑惑の直撃を受けて改憲のチャンスを自ら葬ってしまったことと、続く菅・岸田政権が改憲のタイミングを摑めなかった(見極められなかった)ことにあるかもしれない。
 むろん、予断は禁物。岸田政権はまだしばらく続きそうな勢いだし、それに続く政権がいつ何時都合のいい改憲を実現させようと目論むかもしれないから。われら日本国民は憲法の立憲主義に則って時の内閣と時の議員たちの言動に注意を払い続けなければならない。それが、日本国憲法を法典の頂点に戴くわれら国民の義務だろう。◆


憲法 第八版

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