第3709日目 〈鹿島茂『成功する読書日記』を読みました。──読書日記/ノートの作り方。〉2/2 [日々の思い・独り言]

 フランスの学生の挿話を振り出しにした鹿島茂が次に筆を進めるのは、いよいよ具体的な読書日記(読書ノート)の作り方、いわば実践を前にした読者へのアドヴァイス、であります。が、これがまた一筋縄ではゆかぬ、誰もが即座に真似できるものではないのです、とはあらかじめお断りしておきたい。
 読者諸兄のためにアドヴァイスの見取り図を作ると、こうなります。①どこを引用したらよいか? ②引用だけから成るレジュメ(要約)を作る ③自分の言葉で要約するコント・ランデュに挑戦する ④批評に挑む 以上。核となるのは②と③で、④はむしろ添え物くらいに思うた方がよい。
 では、まず、①読んだ本のどこを引用したらよいのだろうか? です。
 これね、本当に迷うところがあると思うんです。ここを引用しようかな、と考えた途端にその前後も引いた方が分かりやすいかと思い始めたり、ここを引用しようと思うんだけどなんか主題や内容に即していないようか気がすると悩んでしまったり、かと思えば目に留まった箇所を片っ端から引用してみたくなったり、などなど。
 そんな疑問、そんな悩みに、鹿島が授ける唯一無二のアドヴァイスはこれ、「読み終わって本を閉じ、ついでに目も閉じたとき、一番記憶に残っている一節がいい、と答えましょう」
 ここで鹿島は読書日記の本義に立ち返って、「(それは)客観的な資料を残すためのものではありません。あくまで、自分個人のためのものです」と説く。まったく以てその通り。そう、あくまで自分のための読書日記なのです。それゆえに、「引用も極私的なもの」で構わない。「かならずしも、その本のエッセンスを示す箇所とはかぎりません。本筋とは関係なく、自分にとっては妙に気にかかる一節、心に触れる箇所というのがあるはずです。そこを引用すれば」良い。なんとなれば、「そのほうが、後々、はるかに役に立ちますし、力にもなります」から。その本のエッセンスとなる箇所を見附けるよりも、読んでいてピンと来た箇所を引用する方が余程理に適っている。エッセンスとなる箇所はあとから幾らでも捜すことができますけれど、読みながら自分の琴線に触れた箇所というのはまさしくそのとき限りの出会い、一期一会なわけですからあとで捜すのは到底不可能に近い。誰しも同じような出会い方をして、心に刻まれる箇所というのはあるのです。ただ、読みながらノートへ写すのは無理でしょうから、あとで追跡はできるよう、「読みながら端を折っておくといい」でしょう。そうして実際ノートへ写した際は「引用箇所のページくらいは書き留めておいたほうがよい」とは、経験者なら誰しも首肯するところだと思います。引用はいずれもP24から。
 次に、②引用だけからなるレジュメ(要約)を作る、ですが、どんな意味なのでしょう。文字通りの意味であります。自分の文章は使わず、その本からの引用だけで、その本のレジュメ(要約)を作るのです。
 誰ですか、簡単だぜっ! と鼻息荒くしていてるのは? 事はそう単純ではない。というのも、「これは、やってみると、案外、難易度の高いパフォーマンスだということがわかります」。「では、なぜ難しいのでしょうか? 本をしっかりと読んでおかないと的確な引用ができず、ちゃんとした要約にならないからです。本を要約するには、まず正確に理解することが大前提となります」。引用はいずれもP25から。
 そうですね、頷くよりありません。内容をきちんと咀嚼し、自分のものにしてしまっている本であればほぼ「正確に理解」しているだろうから(エッセンスとなる箇所もわかっているだろうから)、そうした本を、引用のみで要約するのは難しいことではないのかもしれません。
 鹿島は、特に引用から成るレジュメの実例は見せてくれていませんから、自分の考えるところを述べますと、この要約は、無理にその本の全編にわたって行う必要はない、各章事の要約は必要になりましょうが、それとて必死になって長いだけの要約はでっちあげなくてもよい。というよりも、むしろ、作ってくれるな。読まされる側は却ってその本のことが分からなくなるばかりだから。かというてむろん、短くしてしまえば良いというわけでもない。しっかり読んで正確に理解しているならレジュメは、必然的に適切な分量に収まるはずだ。程度の問題、というよりはどこまで理解が及んでいるか、どこまで内容をしっかりと把握しているかの問題、というのが相応しいかもしれませんね。
 本の内容、作者のメッセージ、思想等の理解が正確にできていないと、本からの引用は“レジュメ”から大きくズレて、一個人の感想レヴェルに留まります。もっともこの引用のみから成るレジュメが、日常的な読書日記に留まるのか、エッセイや論文のための土台になるのか、でそのあたりの様相はだいぶ変わってくることになるのかもしれません。
 わたくしが『成功する読書日記』を読んで(それこそ全編を通じて)心底唸ってしまったのは、③自分の言葉でその本を要約する、コント・ランデュ、の技術でありました。本書を読んだ少しあとに出版された本の一節に触れて、ああこれはコント・ランデュの技術につながることでもあるな、と合点した点でもありました。
 「引用だけからなるレジュメは、この正確な理解の試金石」(P25)とした上で、「引用だけのレジュメに習熟したら、次になすべきことは、物語や思想を自分の言葉で言い換えて、要約してみるということです。[改行]フランスの教育では、これをコント・ランデュ(compte-rendu)と呼び、引用を使ってするレジュメとは区別しています。これをやると、引用のなかにある言葉や句を使ってはいけないので、語彙を豊かにするのに役立ちます。また、言い換えが作者の言っていることと矛盾してはいけませんから、必然的に[言葉の:みくら補]正しい理解を心掛けるようになります」と述べる。この引用は、P25-6から。
 ボキャブラリーが貧しい人、言葉の誤用濫用に疑問を持たぬ人、その場に相応しい言葉かどうかを配慮できない人、には高い壁かもしれません。しかし、本を沢山読んでボキャブラリーを増やしても、それの正しい意味と使われ方に無頓着では仕方ない。そうした人はコント・ランデュに挑もうとしたらまず座右に侍らすべきは複数冊の国語辞典でありましょう(自戒も兼ねて、いう)。
 先程合点した、というたのはフランス在住の、現地学校で哲学を教える日本人が書いた本に、フランスの学生は論文など書く際そこで使用する言葉の定義を明らかにして(=読み手に伝えて)本題に入る、という件があったのです。曰く、「(フランス人は)アカデミックな世界や学校教育のなかで論文や論述を書くとき、導入となる部分にその文章のキーワードとなる言葉の定義を記します。[改行]これは「私はこの○○という言葉をこんな意味で使います」という前置きです。[改行]文章の初めから終わりまで登場するような重要な言葉であれば、なおさら最初に定義づけをしておく必要があります。そうでないと、読者が「あれ? 自分のイメージしているものと違うぞ」とモヤモヤを抱えながら読み続けることになります」と(平山美希『「自分の意見」ってどうつくるの?』P90 WAVE出版 2023/04)。
 論理的なフランス人、議論好きのフランス人、正しい言葉を正しい場面で正しく使うフランス人、というのが、わたくしのなかで初めに浮かぶフランス人のイメージであります。日本語の教え子のなかにいたフランス人を思うと、そんなことが初めに思い出される。セーヌ川の辺で愛を囁き交わすフランス人、みたいなのが逆に思い浮かんでこない。それはさておき、──
 言葉の定義を明らかにするとは、多義語(同じ言葉でも複数の意味を持つ単語)が多いフランスでは特に必要な作業なのでしょう。言葉は、使われる場面で意味が微妙に異なってくる。その場に相応しくない意味でその言葉を用いることは、時に発信者と受信者の間で相互理解の大きな障壁となる。これを避けるために、どんな意味でこの言葉を使うか、定義をはっきりさせる作業を行うのでしょう。これはそのまま、コント・ランデュに於ける、引用したなかで作者が用いた言葉は使わず、同じ意味を持つ言葉に置き換えて本なり論文なりを要約する作業に直結するはずです。
 ただ、──コント・ランデュはもはや読書日記の域を出てしまっている、というてよいかもしれません。さりながら、ボキャブラリーを増やす、言葉の正確な意味・用い方を獲得する、というばかりでなく本や論文の構造や思考の発展系を正しく把握しているか、の試金石に、これはなりますね。そう考えてみると、自分の語彙や文章力、思考、思想を鍛えることができる最良の方法といえます。
 自分に、②引用のみから成るレジュメ、と、③引用中の言葉に頼らず己の言葉で内容を要約するコント・ランデュ、のいずれであっても出来るかどうか、分かりませんが、そうですね、今後取り組む予定のシェイクスピアで、いっぺん試してみるのはいいかもしれません。
 さて、最後の、添え物程度というた④の批評ですが、読書ノートに写した箇所と、そこに記したわたくしのコメントを転写することで責を塞ぐと致します。鹿島曰く、──
 「(引用から成るレジュメとコント・ランデュを完全に習得したら)ようやく、ここに至って、「批評」という言葉が登場します。言い換えれば、一冊の本のいわんとしていることを的確に引用してレジュメしたり、コント・ランデュすることができぬ限りは、批評という大それた行為に踏み切ってはいけないのです。(中略)不正確な理解の上には、なにを築いても無意味なのです。[改行]また、批評をするには、それなりの修行が必要となります。(中略)批評が、断定的な言葉の羅列だと誤解されては困ります。[文芸批評家以外は:みくら補]批評を全面展開する必要はありません。引用によるレジュメかコント・ランデュ、それに感想かコメントを書き留めるだけで十分だと思います」(P26-7)
──と。
 みくら曰く、──
 「不正確な理解の上には、なにを築いても無意味」! 辛辣ではあるが、実に正しい。文章を書くばかりでなく、何事に於いても然り。肝に銘じよう。
 批評文は感想文の発展型ではない。その間に、レジュメやコント・ランデュという段階がある。批評は窮極系と捉える方がよい。内容を正確に把握していない独りよがりで断定的な言葉で綴られた批評文めいた代物を書くくらいなら、レジュメやコント・ランデュ、もしくは感想やコメントを読書日記に記している方がよい。それでじゅうぶんである。──この鹿島の言葉に安堵した読者も多かったのではないか。わたくし自身、正直、ホッとしている。
──と。◆

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