第3406日目 〈ブロンテから、ショーターを経てワイズへ。そうして再びブロンテへ。〉 [日々の思い・独り言]

 高2の夏休み、雨降りが続く田舎で何日かを過ごした。お盆前の数日、祖母宅に泊まったのだ。そう、しとしとと小雨糠雨の続いた夏だった。歯科医の祖母の手伝いや話し相手、お墓の掃除等々用事のないときは殆どの時間、エミリ・ブロンテ『嵐が丘』を読んで過ごした。田舎での初日の夜、祖母に連れられて外食した帰り、タクシー待ちの間に足を踏み入れた小さな本屋さんで購入した集英社文庫、永山玲二訳である。初めてのブロンテ文学でもあった。
 その直前、図書館から1冊のブロンテ伝を借りて、旅行先まで持っていって読破していた。中村佐喜子『ブロンテ物語』(1988/02 三月書房)がそれだ──旅先で紛失したら、どうするつもりだったんでしょうね?──。中村の訳書には旺文社文庫版『嵐が丘』があり、角川文庫版『赤毛のアン』シリーズや『若草物語』シリーズ、『あしながおじさん』などもある。
 『ブロンテ物語』は後日、自分用に横浜そごう5階にあった本屋さんで注文、買っていまも所有しているが、現在読んでも実に丁寧にまとめられた、平易な文章でけっして幸多かったとはいえぬブロンテ一家に終始あたたかで慈悲深い眼差しを注ぎ、またかれらにぴったり寄り添って綴られた、伝記文学のあるべき姿を具現した1冊である、と思うている。
 先達て例の古典文法書捜索の途中、ガラス扉附き書棚を開いて捜索と風通しと点検を兼ねた作業に勤しんでいたのだが(要するに、目についたお久し振りな本を拾い読みしていたのである)、ブロンテ関連書をまとめた一角から当然のように『ブロンテ物語』も出てきた。そうして漫然と後ろの方のページを開いて読んでいた──ブロンテ家の血が途絶えたあと、彼女たちの遺稿がどのようにして世間から埋もれ、ふたたび世間に出回ったか、が書かれている──ところ、文中のと或る人名に、ピン、と来るものがあったのである。曰く、──

 さて、発見された原稿のほうであるが、そのうちに蒐集家の一人で、、C・K・ショーターの友人であったトマス・J・ワイズという人が、これら「子供文学」がすでに発表されているブロンテ文学研究の上にも役立つと気づいて、公開しようと思い立った。そしてアメリカまでも散り散りになっている豆原稿をまた集めにかかるが、中にはファクシミリに取ることも拒む愛蔵家がいたりして、なかなか思うに任せなかった。
 ようやく一九一〇年ごろから、ワイズを中心にした何人かでその判読、編集にとりかかり、その後二十数年の歳月をかけて出版にこぎつけたのが一九三六年、表題は『シャーロットとパトリック・ブランウェル・ブロンテの未発表雑作品集』(シェイクスピア・ヘッド版)で、ふつうに「アングリア」と総称されているものである。(P235)

──と。
 「子供文学」とはブロンテ家の4人の子供たちが幼少期、それぞれに架空の国や人物の物語を小さな小さな紙片にこれまた小さな細かな字で綴ったものを指し、ここでは長女(実際は三女になるのだが、上の2人はシャーロットが9歳のときに亡くなった)シャーロットと長男パトリック・ブランウェルが一緒に創作した〈アングリア物語〉をいう。ちなみに次女エミリと三女アンのそれは〈ゴンダル物語〉という。
 余談ながら本稿執筆の準備にかかっている最中、鈴鹿工業高等専門学校准教授の古野百合氏が昨年発表した論文に、同趣旨の内容があることを知った。道草めくが、以下に引用しておきたい。曰く、──

 ブロンテ初期作品の存在は早くから知られていたが、本格的な学術研究はなかなか進まなかった。その最大の要因は、オリジナル原稿の散逸にあった。ジャーナリストのClement Shorter(1857-1926)に原稿の購入依頼をした書誌学者のThomas James Wise(1859-1937)は、筆写後に編集した原稿を高額で出版し、オリジナル原稿を切り売りして利益を上げた。その結果、オリジナル原稿の一部は収集家の手によりアメリカやヨーロッパに散逸し、未だ回収不能な原稿が存在している。ワイズは晩年、初期作品の編纂に取り掛かるが、編集作業は難航した。原稿の大きさが小さいことに加え、豆粒のような小さな字体でびっしりと書き込まれていたからである。中にはファクシミリ版もあり、原稿の転写は一部に限られた。ようやく1936年にShakespeare Headから The Miscellaneous and Unpublished Writings of Charlotte Brontë and Patrick Branwell Brontë が出版されたが、一般読者はおろか、研究者にとっても解読は極めて困難であった。

──と。出典は「ブランウェル・ブロンテの先見の明──『羊毛は高騰する』における羊毛投機の表象」より「2. ブロンテ初期作品について」(『英文学研究 支部統合号』13巻P12 日本英文学会 2021年01月)である。
 余談終わり。では、本道に戻って。
 中村引用文に登場する、ブロンテ子供文学の価値に気附いたワイズとは、あのワイズか? ──そんな疑問が浮かんだのだ。年代は、たしかにワイズの存命であった頃。それに、ショーターという名前にも覚えがある。……そうしてわたくしの手は、書架のワイズ伝に伸びて、引用文中の年代を取っ掛かりに、ブロンテとショーターの名前を求めてページを繰り始めた。
 そうやってページを繰ってゆくと──やはり、蒐集家トマス・J・ワイズはまさしく書誌学者にして偽造本制作者トマス・J・ワイズであった。
 では、そのワイズとは何者か? トマス・J・ワイズ(1859-1937)はイギリス書誌学界の法王とまで謳われた人。そのコレクション「アシュリー文庫」を基にして世に送り出された書誌の評判は高く、書誌学会では評議員、副会長そうして会長の地位にまで上り詰めた。一方でのその知識を活用して多くの英国詩人たちの詩集の初版本、私家本を偽造して売り捌くも晩年にその悪事が露見して失墜した人物でもある(大英博物館も偽造本の売却先の1つだった)。
 ワイズの生涯は髙橋俊哉『ある書誌学者の犯罪 トマス・J・ワイズの生涯』(1983/05 河出書房新社)に詳しい。前段でわたくしが手にしたワイズ伝も、これである。
 ワイズの友人として名の出るC・K・ショーターとは、ジャーナリストでブロンテ研究家のクレメント・キング・ショーターのこと。
 ブロンテ家にまつわる著作としては、『Charlotte Brontë and Her Circle』(Hodder and Stoughton 1896)、『Charlotte Brontë and her Sisters』(Hodder and Stoughton 1905)、『The Brontës, Life and Letters』(Hodder and Stoughton 1908)、『The Brontës and their Circle』(J.M.Dent & Sons 1917)がある。ちなみに後述の『ブロンテ全集』第11巻「アングリア物語」にて「ゴンダル物語」解説を担当した中岡洋はショーターを指して、「エリザベス・ギャスケル、ウェミス・リードに次いでブロンテに関する三代目の権威者」(P717)と述べる。
 1829年、大英博物館でシャーロット・ブロンテの未発表原稿が展示されたのを契機にブロンテ愛好家や蒐集家たちの間で、まだ世に現れていない原稿の存在とその行方がかまびすしく囁かれ始めた。
 こうした人たちから依嘱されてショーターは、妻亡きあと結婚生活の地ハワースから北アイルランドの故郷へ帰っていた、ハワース牧師館の副牧師でシャーロット・ブロンテの夫アーザー・ベル・ニコルズ──この間の事情はジュリエット・パーカー『ブロンテ家の人々』(下 P652-661 彩流社 2006/10)に記されてある──を訪ね、その手許にあった姉妹の原稿類を買い取った、という。1895年、シャーロット歿してちょうど40年後のことである。原稿類はショーターがイングランドへ戻るや愛好家、蒐集家たちの手に渡り、散逸した。
 中村引用文にあるような、シャーロットとブランウェルの「子供文学」をワイズがどのような経緯で閲覧し、翻刻と編集作業に取り掛かったのか詳らかでないが、ワイズ年譜1917年条『ブロンテ書誌』刊行、1929年条『ブロンテ姉妹目録』刊行の記載が、それぞれある。1936年条に『未発表雑作品集』の記載はないが、例の偽造本製作と頒布の悪行が決定的になっていた時分なので、そのあたりの事情が加味されているのかもしれない。もっと詳細精微な年譜にあたれば、その記載もあるのかもしれないが──。
 ただそのワイズの書誌──「これらのうち相当数のものが一九七〇年代になってイギリス書誌学会の名で次々に覆刻されてきている。……ワイズの書誌、目録が今日にいたっても高い水準を保ちつづけていることの証左というべきであろう」(『ある書誌学者の犯罪』P208)──にも幾許かの問題はあるようだ。わたくしがワイズを知った由良君美の文章には、ワイズは自分の編纂した目録に自己の偽造本を滑りこませて高額で販売していた旨記載があるし(「書誌学も極まるところ一つの犯罪」 『風狂 虎の巻』P295 青土社 1983/12)、また『ブロンテ全集』第11巻「アングリア物語」(みすず書房 1997/01 ※最終回配本)解説で岩上はる子が、翻訳の底本とした、ワイズとジョン・アレクザンダー・サイミントン(John Alexander Symington)が共同編集した『The Miscellaneous and Unpublished Writings of Charlotte Brontë and Patrick Branwell Brontë』Vol.1(Shakespeare Head 1936)及びVol,2(同 1938)に関して、こんな風に述べている。曰く、──

 トマス・J・ワイズによる初期作品の編集に問題がないわけではない。……シェイクスピア・ヘッド版は手稿を筆写したものだが、その際に原文の改ざんや加筆を行った可能性も指摘されている。また二巻のうち約三分の一が手稿のファクシミリのままという問題もある。(P707-708)

──と。
 要するに、その犯歴ゆえワイズがかかわった出版物はおしなべて全面的な信用を置くわけにいかない、ということだろう。ただそれを言い始めたら進められるものも進められなくなり、偽造本製作と販売の咎ゆえにその業績すべてを否定する方がはるかに危険なのではあるまいか。むろん、書誌に偽造本が紛れこんでいるとあっては、その書誌には眉に唾つけて臨むが賢明、とじゅうぶん承知もしているのだが──。なかなか難しい問題である。由良のエッセイのタイトルにもあるが如く、まさに「書誌学は一つの犯罪」といえるだろう。
 ただ、上記引用文に続いて岩上が次のように述べているのは、記憶に留めておいて良かろうと思う。曰く、──

 だがこうした問題は別として、ニコルズの元で三十年近く眠っていた初期原稿が、ワイズとサイミントンの編集による二巻本の初期作品全集によって、ブロンテ姉弟妹の早期の創作活動が知られることになったのである。(P708)

──と。事実、これ以後なのだ、初期作品と既発表作の相関関係にスポットがあたってブロンテ文学研究が新局面を迎えるのは。或る意味で──そこに多少なりとも功利を得るという目的はあったにしても──ワイズの存在なくしてブロンテ子供文学/初期文学があのタイミングで注目を集めることはなかっただろう。もしかすると、それらは噂のみで存在を伝えられ、その実物が知られることはなかったかもしれないのだ。なんとなればショーターがあのタイミングでニコルズの許を訪ねなければ、それらは火中に投じられて灰となり、永久にこの世から消えてなくなっていたかもしれないのだから(『ある書誌学者の犯罪』P93)。
 さて、結局のところワイズ編『ブロンテ書誌』の内容をどこまで信用してよいのか、という話になるのだが──正直に告白するが、それはわたくしの手に余る作業だ。そもワイズ編『ブロンテ書誌』の実物を見たことがないのだから、それもご理解いただけよう。なにかを発言できるだけの知識はなく、踏みこんでよい領分とも思えぬ。為、この話題はここで止そうと思う(実物を手に入れて、発言できるだけの知識等を身につけたいという気持ちは勿論、ある)。
 もっとも、この件に関しては先に引用したワイズ伝の一節──「ワイズの書誌、目録が今日にいたっても高い水準を保ちつづけていることの証左」──が、これ以上ない回答となっているのかもしれない。
 とまれ、ワイズが直接間接にブロンテ研究へ関与し、その功績大であることは確かめられた。改めて今回を、シャーロット歿後に始まるブロンテ研究史を調べてゆく機としたい。そうして髙橋以外のワイズ伝を読む機としたい。◆

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