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第0991日目 〈イザヤ書第10章:〈アッシリアの傲慢〉、〈アッシリアを恐れるな〉&〈敵の攻撃〉他withドストエフスキー『未成年』を読み進めていますが、……〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第10章です。

 イザ10:1-4〈北イスラエルの審判〉2/2
 災いだ、偽りを正義とする者は。弱き者を虐げて餌食とする者は、災いだ。お前たちは襲ってくる嵐からどうやって逃れるつもりか。誰に助けを求めるつもりか。捕虜となって身を屈み、そのうち殺されて倒れるだけではないか。━━それでも主の怒りはやまず、御手は伸ばされたままだ。

 イザ10:5-19〈アッシリアの傲慢〉
 わたしの怒りの鞭となるアッシリア、これも災いだ。アッシリアに命じたのはダマスコとサマリアの大地を踏みにじり、そこから富を略奪し、戦利品を持って都へ帰れ、ということだった。が、アッシリアは自らの力に驕って、それ以上の事を謀った。アッシリア王が望むのは2つの国を滅ぼすこと、そうして、わたしの御座が据え置かれたエルサレムをも滅ぼし、絶つことであった。
 わたしはそれを許さない。道具が使う者に刃向かうとは何事か。わたしはアッシリアの王の中に衰弱を送りこみ、わが栄光の下に炎を燃えあがらせよう。
 「イスラエルの光である方は火となり/聖なる方は炎となって/一日のうちに茨とおどろを焼き尽くされる。/森も牧場も魂から肉まで焼き尽くされ/くずおれて倒れる。/森に残る木は数少なく/幼子でもそれを書き留めうる。」(イザ10:17-19)

 イザ10:20-23〈残りの者の帰還〉
 アッシリアの難を逃れた者は二度とかの国に頼ることなく生き、主にのみ真実を以て依り頼むようになる。逃れた者、残った者だけが主に帰る。定められた滅びの日までの間、正義が満ち、秩序がもたらされる。全世界のなかで定められた滅びが行われるからだ。

 イザ10:24-27(1/2)〈アッシリアを恐れるな〉
 主はいう、それゆえにアッシリアを恐れるな、と。やがてアッシリアが討たれるときが来る。いまはあなた方へ向かっているわたし(主)の怒りも憤りもいつしか尽きて、その矛先がアッシリアに向けられる日が来るからだ。その日、あなた方の上にあった重荷は除かれ、軛は取り去られる。

 イザ10:27(2/2)-34〈敵の攻撃〉
 アッシリアの軍はヨルダン川に沿うようにして南下し、途上のユダの町々を攻め落としながら、シオン、エルサレムの丘を望む場所までやって来る。そのとき、と主はいう、そのとき、わたしは斧を振りおろして敵を絶とう、と。

 後にバビロン陥落を伝える章(第21章)でも感じたことですが、主の怒りは特にアッシリアとバビロンに向かって甚だしく、かつ凄まじい。もう、容赦がない。それはむろん、彼らがイスラエルを捕囚とするからですが、それでもこの鬼神ぶりはもう久々に旧約聖書の神の本性を目の当たりにさせられ、残酷なる旧約聖書の神の力量が十二分に発揮された、と嗟嘆せざるを得ないのであります。まさに旧約聖書は<正義>と<贖罪>と<浄化>の名の下で展開される壮大なるSM小説である、と認識を改めさせるに如くはない章でありました。
 補足として、イザ10:27(2/2)-34でアッシリア軍の進撃するコースを、覚え書きも兼ねて認めておきます。()内の数字は節であります。リンモン(27)→アヤト、ミグロン(28)→ミクマス(軍備品を配置。28)→ゲバ(露営。29)→ラマ、サウルのギブア(29)→ガリム、ライシャ、アナトト(30)→マドメナ、ゲビム(31)→ノブの丘に立ってエルサレムを望む(32)。岩波訳聖書巻末にある地図や『聖書地図』の類、もしくは市販の世界地図、中近東地方が詳しく載る地図でご確認ください。
 なお、最近出版された『地図と写真で読む 聖書の世界〔コンパクト版〕』(日経ナショナル・ジオグラフィック社)は記事と訳文がしっかりしており、図版も、鮮やかな写真とわかりやすい地図が満載ですので見るだけでも楽しい、ちょっと高い本ですが、清水の舞台から飛び降りる覚悟で備えておくと重宝する一冊であります。



 ドストエフスキー『未成年』を読み進めています。暑いなかでもよく読んでいるものだ、と自分で自分を誉めてあげたくなります。顧みれば昨年の今頃はドストエフスキーを離れ、太宰治へ一時的に逃避していたのですよね。今年もそうなるのかなぁ、と危惧するのですが、いまのところ、実行させるだけの逃避願望は頭をもたげていません。さいわいなことです。
 でもまだ6月ですからね、油断はできません。『未成年』もまだ上巻、半分来たかどうか、というあたりですから、或る日突然部屋の片隅へ抛って他の作家(太宰である可能性が最も大きいのですが)へ一時的鞍替えを果たす可能性は、けっして否定できません。これぐらいの分量であれば、どこかの時点で仕切り直しをして最初から読み直すことも、さしたる労力ではありませんからね。
 今年の夏、さんさんかはドストエフスキー作品に操を立てて添い遂げるのか、それとも、他の作家の作品を集中的に読んで一夏のアヴァンチュールを楽しむのか。夏が去って秋とならねばわかりませんが、読者諸兄はどちらだと思いますか?◆

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第0990日目 〈イザヤ書第9章:〈ダビデの位〉2/2&〈北王国イスラエルの審判〉withスキャットマン・ジョンを覚えていますか?〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第9章です。

 イザ9:1-6〈ダビデの位〉2/2
 闇のなかを歩む者の上に、死の陰の地へ住む者の上に大いなる光が輝き、人々はそれを見た。主は深い喜びと大いなる楽しみを人に与え、人々は御前に喜び祝う。もはや彼らの上に課せられ、のしかかっていた苦痛は一掃された。
 やがて、━━
 「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。/ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。/権威が彼の肩にある。/その名は、『驚くべき指導力ある神/永遠の父、平和の君』と唱えられる。/王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。/万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」(イザ9:5-6)

 イザ9:7-20〈北イスラエルの審判〉1/2
 主の御業はイスラエルに降りかかった。それでいてなお北の民は驕る心を改めない。それゆえ主は、北イスラエルを苦しめる者ダマスコ(シリア)を立て、アラムとペリシテを起こし、北王国イスラエルを嬲った。が、主の怒りはやまず、御手は伸ばされたままだ。
 北の民は斯様なことがあっても主の信仰へは立ち帰らなかった。主は彼らのなかから頭と尾、即ち民を導くべき者と惑わせる者を断ち切った。もはや主はみなしごややもめを憐れむこともない。北の民はすべて神を無視する者だから。ゆえ、主の怒りはやまず、御手は伸ばされたままなのだ。
 万軍の主の怒りの炎が大地を焼き尽くす。そこに住まう者は燃えかすのようになる。容赦はない。誰も彼もが同胞の肉を喰らう。エフライムとマナセは互いを相食み、矛先をユダへ向ける。しかしなお、主の怒りはやむことがなく、主の御手は伸ばされたままである。

 前半と後半でコントラストのはっきりした章です。この第9章はいわば分水嶺の役目を果たす━━一人のみどりごが生まれる、というユダへの恵みと、ユダを除く国々には互いに滅び滅ぼす時代が訪れる、という。審判/託宣の嚆矢となるのが同胞である北王国なのは、皮肉でも何でもない。必然の成り行きである。少なくともわたくしはそう考えますが、わたくし以上に「イザヤ書」に親しまれているはずのキリスト者の方々は如何ですか?
 イザ9:10「苦しめる者レツィン」はダマスコ(シリア)を指す。
 また、「彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように/打ってくださった。」(イザ9:3)については、「士師記」第6-7章にある大士師ギデオンのミディアン討伐の物語をご参照ください。



 スキャットマン・ジョンを覚えていますか? これを書きながら彼のCDを聴いています。売れない時分はジャズ・ピアニスト/シンガーでした。ブレイクをはたした当時は際物扱いだったが(少なくともこの国では)、こうして改めて聴いてみると、歌手としての力量はたぶんこちらが思っていたよりもはるか高みにあった。彼の前半生や吃音症というコンプレックスを絡めて本盤を聴くと、なにやら別の感情がこみあげてきます。それは、スキャットマン・ジョンのマイノリティとしての声に感応したせいなのかもしれない。さっき歌詞カードを見ていて啞然としたのだが、歌詞の内容はとても深くて、意味深なものが多く並んでいる。残念でならぬのは、彼のその後の活躍と発展してゆく過程に立ち会えなかったこと。彼が白玉楼中の人となって、今年で12年になります。57歳とはあまりに早すぎる死でありました。◆

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第0989日目 〈イザヤ書第8章:〈速やかな略奪〉、〈神のみを畏れよ〉&〈主を待ち望む〉他with映画『マトリックス』を何年ぶりかで観ました。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第8章です。

 イザ8:1-4〈速やかな略奪〉
 イザヤは祭司ウリヤとゼカルヤを信頼するに足る証人として、主にいわれたように、大きな羊皮紙にわかりやすい字で、<マヘル・シェラル・ハシュ・バズ>と書いた。分捕りは早く、略奪はすみやかに、という意味である。
 イザヤは或る女預言者を妻としていたが、彼女が男児を産むと、この次男を<マヘル・シェラル・ハシュ・バズ>と命名した。これは主の指示である。重ねて主はこういった、この子が口を聞けるようになる前に、ダマスコ(シリア)とサマリアの富はアッシリアに運び去られる、と。

 イザ8:5-15〈神のみを畏れよ〉
 主はユダの民についてもいった。激流となって襲い来たるアッシリアの王とその栄光の下にユダは覆い尽くされる。「その広げた翼は/インマヌエルよ、あなたの国土を覆い尽くす。」(イザ8:8)
 ユダよ、と主は告げる、対アッシリアの策を練り、軍備を備えよ、と。が、それらのいずれも無に帰する。主により決定された未来のために、なによりも、神がわれらと共にいる(インマヌエル)のだから。
 イザヤよ、と主は告げる、民と道を同じうするな、と。彼らが恐怖するものを恐怖するな。イザヤと、イザヤと共に在らんとする人々は、「万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。/あなたたちが畏るべきは主。/御前におののくべき方は主。」(イザ8:13)
 南と北の両王国にとって主は妨げの岩、エルサレムの民にとって主は仕掛け、そうして罠。

 イザ8:16-23〈主を待ち望む〉
 「わたしは弟子たちと共に/証しの書を守り、教えを封じておこう。/わたしは主を待ち望む。/主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが/なおわたしは、彼に望みをかける。/見よ、わたしと、主がわたしにゆだねられた子らは、シオンの山に住まわれる万軍の主が与えられたイスラエルのしるしと奇跡である。」(イザ8:16-18)
 人々はわれらを責め、咎めるだろう。彼らはやがて、この地で苦しみ、飢え、彷徨う。憤り、天を仰いで王と神を呪う。苦悩のなかにいまいる人々は、そこから逃れる術を持たない。

 イザ8:23〈ダビデの位〉1/2
 過去にゼブルン、ナフタリの地は侵略されて辱められた。が、未来にあっては異邦人の地ガリラヤが栄光を受ける。

 第7章〈インマヌエル預言〉を更に補強する章です。新約聖書では「ヨハネの福音書」にイザヤの言葉を基にした既述があります(「わたしは弟子たちと共に/証しの書を守り、教えを封じておこう。/わたしは主を待ち望む。」イザ8:16-17→「イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。」ヨハ12:41)。
 〈ダビデの位〉で異邦人の地ガリラヤが栄光を受ける、とあるのは、むろん、ナザレがガリラヤにあるためであります。続くイザ9:1-6では「一人のみどりごが生まれる」とまで預言されます。イエス誕生を預言する以外の何物でもないでしょう。なお岩波訳聖書では第23節冒頭に「しかし、苦悩のあったところに、暗闇がなくなる。」という一文が挿入されています。
 第7章から第9章(第6節)まで続くメシア預言は読んでいて高揚させられること請け合いの、大きな力を持った箇所です。じっくり腰を据えて何度読んでも感動させられる、胸が震えてくる章です。



 今夜の金曜ロードショー(というのは先週6月24日のことですが)で久しぶりに映画『マトリックス』(1999 米)を観ました。いま観てもじゅうぶん楽しめるし、なによりも、時間の淘汰にしっかり耐えて、雄々しく生き残っているではないか。━━昨年上映された『トロン:レガシー』よりも見応えがある、というのは、やはりこの第1作目に関しては<本物>であった、ということか(『トロン』は1980年代に上映されたオリジナルの方が良かった、ノスタルジーがそうさせるのかもしれないが。2010年版はSFXだけがウリの代物に感じられてならないのです……)。
 『マトリックス』に戻ろう。これだけの作品になるとずいぶん誹謗も受け、事実、いろいろな媒体で賛否の言葉を見かけますが、それはヒット作の宿命、多くの人に観られた証し。SF映画好きな少年が成長してこの作品に出会ったとき、脳裏に浮かんだのは、嗚呼サイバーパンクの世界だぁ、それ以上にディックの世界だぁ……、と溜め息をついたものでした。かのSF作家に是非観てほしかった映画があるとすれば、これはそのほぼ筆頭に挙げられる映画です。主演が『スキャナー・ダークリー』と同じキアヌ・リーブスとなれば、そのシンクロぶりには苦笑いするよりありません。『NEXT ネクスト』や『アジャストメント』なんかよりよほど『マトリックス』の方がディック映画らしくてよいですよ。
 あの映像感覚、設定、この物語を自分の手で生み出したかったですね。自分の読書経験に於いてSF小説がどれだけウェイトを占め、就中ディックの影響がどこまで根深いものであったか、を改めて思い知らされる機会が、最近何度か、偶然のように起こったのですが、そのほとぼり醒めやらぬ今日『マトリックス』を観たから、こんな風に思うのかもしれないな、と、放送が終わったあと、ぼんやり溜め息をついたことであります。
 ……って、こんなこと、AKB48の「軽蔑していた愛情」を聴きながら書くことじゃないですね。◆

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第0988日目 〈イザヤ書第7章:〈インマヌエル預言〉&〈大いなる荒廃〉with残した雑誌は、……〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第7章です。

 イザ7:1-17〈インマヌエル預言〉
 南王国ユダがアハズ王を戴いていた時代。北王国イスラエルが敵国アラム(シリア)と手を結んだ。はるか東方より手を伸ばし来たったアッシリアに対抗するための同盟であった。両国はユダとも組んで三国同盟を成す計算であった。が、南王国はこれを拒んだ。北王国とアラムはユダを討たんと連合軍を派遣した。いわゆる、シリア-エフライム戦争である。けれども王都エルサレムを攻めることはできなかった。
 そんな折、主の言葉がイザヤへ臨んだ。アハズ王よ、あなたは2つの国の勢いを恐れる必要はない、心を弱くするな。やがて北王国━━エフライムは滅びる。アラム即ちシリアも同様に。信じよ、但し「信じなければ、あなたは確かにされない。」(イザ7:9)
 アハズ王は逡巡した。イザヤは一喝した。わが王は民のみならず主にまでもどかしい思いをさせるのか、と。「わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。/見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。/(中略)/その子が災いを退け、幸いを運ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる。」(イザ7:14,16)
 そうして預言者は告げた、やがてアッシリアの王がエフライムを滅亡させることを。「主は、あなたとあなたの民と父祖の家の上に、エフライムがユダから分かれて以来、臨んだことのないような日々を臨ませる。アッシリアの王がそれだ。」(イザ7:17)

 イザ7:18-25〈大いなる荒廃〉
 然るべき日が訪れたらば、主はエジプトとアッシリアに号令をかける。それは大軍であり、怒濤の勢いでかの地へ押し寄せよう。その日、主はアッシリア王を雇う。かの地は蹂躙され、荒廃する。大地はイバラとオドロ(※)に覆われる。人はそこへ行くのに武器を携行するようになる。その場所へ行くのを人はためらい、家畜が踏みしだくに任せるようになる。

 ここで主が預言するのは、アラム/北王国イスラエルの連合軍とユダの間で勃発した<シリア-エフライム戦争>であり、また、北王国の王都サマリアの陥落であります。併読すべきは王下16:5-9〈ユダの王アハズ〉。代下28:5-8(併せて同9-19も)参考までに。
 「オドロ」とは雑草のことですが、特にトゲのある雑草が密集して生える場所を、別にオドロとも呼びます。イザヤが好んで用いる言葉であり、彼はオドロ(もしくは、それの生える地)を、呪われた状態が続く様子に喩えます(ex;イザ5:6〈ぶどう畑の歌〉)。



 売却するCDを選ぶ序に、棚の前のじゃまな雑誌や書類を一斉処分しました。残した雑誌は、何度となく読み返したものだけ。読んで愛着ある本のみ残す。それが重なって手に余るようになったら、また改めて選別裁判をすればよい。片附け上手な女性、お嫁に来て。おぐゆーさん!◆

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第0987日目 〈イザヤ書第6章:〈イザヤの召命〉withエリック・ホッファー『波止場日記』を借りました。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第6章です。

 イザ6:1-13〈イザヤの召命〉
 前736年は南王国ユダの王ウジヤが崩御した年である。この年、私イザヤは神殿にいて、セラフィムに護られた主の御姿を見た。天の高いところにある御座に坐す御姿であった。それは災い、禁忌である、と私は思い、その罪に震えた。
 すると、一人のセラフィムがおりてきて、私の唇へ、祭壇から取った炭火を当てた。そのセラフィムはいった、お前の罪は赦された、と。
 そのときだった、主の御声が聞こえたのは。主は、誰を自分の言葉を伝える者として遣わすべきか、と独りごちていた。咄嗟に私はいった、主よ私を遣わしてください、と。主は諾った。
 「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。/この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。/目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」(イザ6:10)
 いつまで? ━━住む者なく家が朽ち果て、大地が荒廃するまで。
 主はユダの民を遠地に移す、という。国は打ち捨てられる。そこに1/10が残るけれども、彼らも絶たれる。「しかし、それでも切り株が残る。/その切り株とは聖なる種子である。」(イザ6:13)
 主は、私イザヤを召命して、こう語った。

 われらも世界史の授業と聖書読書を通じてよく知る、ユダのバビロン捕囚とそれに伴うユダ王国の崩壊、数十年の時を隔てて実現するエルサレム帰還が預言されます。イザ6:10は既に規定事項としてあるそれを実現させるために、主がとく言い含める預言です。
 今後、預言はイザ6:10を基調音とし、時によっては歴史書ともリンクしてゆきます。「列王記・下」や「歴代誌・下」を繙きながら預言と歴史が如何にリンクしてゆくか、その立体構造を味わっていただきたい、と思います。
 面白いことにこの召命体験が詳しく報告されるのはイザヤの他、エレミアとエゼキエル、即ち旧約聖書の3大預言者というべき彼らのみであります。他の預言者━━<小預言者集>と総称される12人については召命がいつ、どこで、どのようにされたのか、よくわからない。預言者の歴史的位置や書物の規模など反映しているのかもしれませんが、この点について頗る欲求不満であると共に想像する余地があって楽しめるのも、事実であります。
 神殿で召命体験をした、ということは、イザヤは神殿に奉仕する仕事をしていたのでありましょう。その精を受けて2人の男児を産んだ彼の妻も、然りであります。とまれ、イザヤが旧約聖書に現れて活躍した数多の預言者のうちで、最も名が知られる預言者の一人であり、新約聖書に影響を与えた最大級の人物であるのは、疑う余地はないと思います。



 風が吹いて、涼しかった昼間。「さて」と腰をあげて、図書館へ行ってきました。さっさと借りて帰るはずが閉館間際まで机に陣取っていたのは、マルセル・ブリヨン著『マキャベリ』を読み耽ったことと、聖書読書ノートを書いていて筆が止まったことに起因する。けっきょく貸し出しの限界冊数を借りて夕飯前に帰宅。さっそくエリック・ホッファーの『波止場日記』(みすず書房)を読む。
 これを書いた時分のホッファーは、いまのわたくしとほぼ同年齢に当たるはずだ。わたくしもやがて、彼と似たような世界で労働することになる。そういう意味では参考書といえなくもない━━労働し、思索し、執筆する。作中、彼がたびたび触れる著作の構想、或いはそれに伴うデイ・ブックやメモの存在は、わたくしの場合、このブログの原稿ということになるだろうか。
 労働する思想家、学者、物書き屋にとってホッファーは、その生活様式が、労働と読書と執筆に対する姿勢が、まさに「鏡」というに足る存在であろう。仕事が忙しくてとてもじゃないが書くためのアイデアをまとめたり、物を書くための時間を捻出することができないんだよね、なんて曰う人は、単に自分が怠惰であることを告白しているようなものです。そんな人は何事も成し遂げられない場合が専らでないでしょうか。
 以前借りた『自伝――構想された真実』(作品社)や『安息日の前に』(同)を含めてのお話ですが、実はほぼ3ヶ月ほど前からホッファーの本を購入しようか、と迷うことが多く、そのたび、図書館に行けば借りられるからなぁ……と諦めていた。いまもそんな気持ちの揺れを感じている。こんな風に書いていると自分でも、やれやれ、と思うのですが、おそらく今年中にここで挙げた3冊のホッファーを買っていることでしょうね。むろん、仕事が決まった安堵がいわせる台詞であるのは、ご承知いただけましょう。
 どうか、良き仲間に恵まれますように。良き仕事に恵まれますように。◆

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第0986日目 〈イザヤ書第5章:〈ぶどう畑の歌〉、〈富める者の横暴〉&〈遠くからの敵〉with「もか」のコーヒーを飲みたかった〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第5章です。

 イザ5:1-7〈ぶどう畑の歌〉
 わたしは歌おう、愛する者のため、そのぶどう畑の歌を。大地を耕す、石を除き、土を掘り返して、その地に良いぶどうが実るために。が、実ったのは酸っぱいぶどう。
 ユダとエルサレムの民よ、わたしと、わたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしは思惑通りにならなかったこのぶどう畑を見棄てる、荒れるに任せ、踏みにじられるに任せて。
 「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑/主が楽しんで植えられたのはユダの人々。/主は裁き(ミシユパト)を待っておられたのに/見よ、流血(ミスパハ)。/正義(ツェダカ)を待っておられたのに/見よ、叫喚(ツェアカ)。」(イザ5:7)

 イザ5:8-24〈富める者の横暴〉
 ただ富裕になることに邁進する者は災いだ。酒豪であるのを誇る者も、終日飲酒に耽る者も災いだ。彼らは主の働きに目を留めることも、御手の業を顧みることもしない。陰府はどこまでも口を大きく開き、彼らをその声もろとも呑みこむ。
 災いだ、主を信じることもなくわが民を愚弄する異民の衆は。災いだ、闇を光といい、光を闇といい、悪を正義という者は。災いだ、自らにうぬぼれて溺れる者は。
 彼らは焼き尽くされて、この地から絶たれよう。主の教えを拒み、聖なる方の言葉を侮ったのだから。
 「万軍の主は正義のゆえに高くされ/聖なる神は恵みの御業のゆえにあがめられる。」(イザ5:16)

 イザ5:25-30〈遠くからの敵〉
 ……イスラエルへ主の怒りが臨むと、大地は震え、巷間に民の屍が芥のように散り舞う。「しかしなお、主の怒りはやまず/御手は伸ばされたままだ。」(イザ5:25)
 主は遠くの国に合図して、異国の軍隊を呼び寄せる。連中は休むこともなく足取り軽く、若獅子の如く吼え、唸りながら、ユダを、エルサレムを目指してやって来る。主の民を助ける者は誰もいない。
 「その日には、海のごう音のように/主は彼らに向かってうなり声をあげられる。/主が地に目を注がれると、見よ、闇が地を閉ざし/光も黒雲に遮られて闇となる。」(イザ5:30)

 「遠くの国」とはアッシリアを指す。事実、アッシリアは北王国イスラエルを瓦解させ、やがては南王国ユダとその王都エルサレムにまで迫ります。われらは歴史書で両国の運命を知っています。主にとってその運命は規定事項。「イザヤ書」を始めとする預言書は、<その瞬間>へ向けて全地の民を導く主の言葉、計画が語られる書物でもあります。



 いちどでいい、「もか」のコーヒーを飲みたかった。井の頭公園そばにあったお店はまだそのままなのでしょうか。知るのが遅かったな……。◆

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第0985日目 〈イザヤ書第4章:〈エルサレムとユダの審判〉2/2&〈エルサレムの将来の栄光〉with転職先が決まりました。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第4章です。

 イザ4:1〈エルサレムとユダの審判〉2/2
 主が争い、立つ日(イザ3:13)、7人の女が庇護を求めて1人の男に懇願する。どうか、われらの恥を拭い去ってください、と。

 イザ4:2-6〈エルサレムの将来の栄光〉
 イスラエルの生き残った者、即ち<その日>に生きて在る者にとって、主の若枝は麗しさと栄光となり、この地が結ぶ実は誇りとなり輝きとなる。シオン/エルサレムに生きて在る者は聖なる者と呼ばれる。「彼らはすべて、エルサレムで命を得る者として書き記されている。」(イザ4:3)
 「主は必ず、裁きの霊と焼き尽くす霊をもってシオンの娘たちの汚れを払い、エルサレムの地をその中から必ずすすぎ清めてくださる。」(イザ4:4)
 主は、昼は雲、夜は煙と炎となって、シオン全域にそこで行われる集会を、栄光に満ちた天蓋となって覆う。やがて、主のための仮庵も建てられよう。

 本章はノートするにちょっと労あって、けっきょくほぼ全文を引くことになってしまいました。自分の力不足を実感します。もっとも、昨日から今日にかけてノートを取ったイザ15-16(〈モアブの破滅〉)の方が、よほど難儀させられたのですけれど、そんな舞台裏は明かさぬというのが本ブログの信条なので、いまのは読まなかったことにしてください。えへ。
 イザ4:2-6〈エルサレムの将来の栄光〉はメシア預言というてよいか、ちょっと微妙なところですが、ますはそういうてよい、と思います。━━「その日には、イスラエルの生き残った者にとって主の若枝は麗しさとなり、栄光となる。この地の結んだ実は誇りとなり、輝きとなる。」(イザ4:2)なる文言は、第11章でも類似した表現に遭遇することになります(イザ11:1-5)。<主の若枝>はイザ11を読めばダビデの家系を指し、つまりやがて生まれ出でたるメシア=イエスを指す、と察せられましょう。
 本格的なメシア預言がされる第7章と第11章の、露払い的役割を果たす章であります。



 えーと。最初にご報告せねばならぬのは、今日(昨日ですか)転職活動が終わったことでしょうか。過日に面接した会社で採用、雇ってもらえることになりました。汗をかきながら足を棒にして実り少なき面接をこなし、就職サイトを切羽詰まった思いで閲覧したり、ハローワークで長く待たされて紹介状を出してもらった挙げ句不採用通知をもらう苦しさから、ようやっと解放された……。早くに次が決まって、本当によかった。しかし、初日が<あの日>とはいったいなんの巡り合わせであろう。なにかの導きかな? 趣味嗜好と業務スキルを考えたら、ここ以上にぴったりな職場もないかもしれない━━ちょっとお給料は安くなるけれど、まぁいいさ、昇給のチャンスは幾らでもある。未来のために、未来を信じて、おいらは前へ進む。◆

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第0984日目 〈イザヤ書第3章:〈エルサレムとユダの審判〉1/2with『LOST』全話リピート放送決定!〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第3章です。

 イザ3:1-26〈エルサレムとユダの審判〉1/2
 エルサレムとユダは主によって支えとなるもの、頼みとなるものを、みな取りあげられた。国はそれゆえ乱れ、ほころび、そうして倒れた。そも舌と行いを以て主を敵とし、その栄光の眼差しに逆らったからである。
 「彼らの表情が既に証言している。/ソドムのような彼らの罪を表して、隠さない。/災いだ、彼らは悪の報いを受ける。
 しかし言え、主に従う人は幸い、と。/彼らは自分の行いの実を食べることができる。/主に逆らう悪人は災いだ。/彼らはその手の業に応じて報いを受ける。」(イザ3:9-11)
 主は立つ、おのが民イスラエルを乱す者と争うために。主は臨む、おのが民イスラエルを裁くために。
 シオンは高慢かつ傲慢になりすぎた。シオンの娘らは美しき身の装いを剥がれ、シオンの男らは武勲をあげる間もなく敵の剣に倒れる。
 「シオンの城門は嘆き悲しみ/奪い尽くされて、彼女は地に座る。」(イザ3:26)

 荒ぶる主の怒りが全地に臨むことが示される章です。
 アラムと結託してユダを攻めた北王国イスラエルのみならず、主は自分の御座の置かれたエルサレムすら、裁こうとしている。如何に罪が深かったか━━王と民の犯した罪がどれだけ因業深いものであったか、今更ながら考えさせられる章といえましょう。



 『サラエボの花』という映画を観ました。感想を半分ばかり書きかけたのですが、するうちにだんだん苦しくなってしまった。わたくしの世代がメディアを通じて経験した紛争・戦争は幾つかありますが、この映画の背景となったボスニア内戦もその一つ。世界に対して目を向けるようになり、国際問題などについて敏感になる時期に、このボスニア内戦はありました。これの経緯はひとまずwikiで、その後は図書館などに所蔵される各種出版物でご確認いただきたいが、そうした背景を知っておくと、この映画が抱えこんだ悲しみやラスト・シーンでの母娘の和解が、なにも知らない以上に強く胸を打つと思います。これの感想は、録画したものをDVDに落としてあるので、そちらをもう一度観てから改めて書いて、お披露目しようと思います。軽い気持ちでは書けませんよ……。
 それはそうと、<スカパー!>で来月放送する番組をチョイスした冊子があって、今日(昨日ですか)送られてきたのですが、やった! ようやっと『LOST』がシーズン1第1話から全話リピート放送決定だって! わーい。今度はHDで全話録画するぞ。どうせなら新シーズン開始前に放送された特別番組も、同じくリピート放送してくれればいいのに。できれば、DVD-BOX限定で収録されたというファイナル・シーズンの1話も放送してくれないかしら。21世紀の海外ドラマでいちばん夢中になった『LOST』(『CSI:マイアミ』は別格かも)。あの謎の島と個性派揃いのメンバーと、われらは感動の再会を果たすっ!
 「4・8・15・16・23・42」◆

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第0983日目 〈イザヤ書第2章:〈終末の平和〉&〈高ぶる者に対する審判〉withチェリビダッケ/ブルックナー交響曲第5番を聴き直しました。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第2章です。

 イザ2:1-5〈終末の平和〉
 ━━預言者イザヤは、ユダとエルサレムの行く末を幻に見た。
 終末の日、シオンは他よりも高く聳え、国々はこぞってシオンへ向かい、民は軒並みシオンを訪(おとな)う。そうしていう、主の山へ登ろう、ヤコブの神の家に行こう、と。主がわれらに道を示してくださるから、と。主の教えはシオンから出、御言葉はエルサレムから出るのだから。
 「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。/彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。/国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。/ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」(イザ2:4-5)

 イザ2:6-22〈高ぶる者に対する審判〉
 ペリシテ人同様にイスラエルも異国と手を結んで交わり、東方の占い師や魔術師が国を満たすようになった。イスラエルは主を忘れたのだ。ゆえに主もイスラエル即ちヤコブの家を捨てたのである。
 だがやがて、地のあらゆる者へ万軍の主の日が臨む。人の手が作った偶像はことごとく滅び、ただ主のみが高く上げられる。主に依り頼む人は、主が立って地を揺り動かすとき、「岩の間に入り、塵の中に隠れよ/主の恐るべき御顔と、威光の輝きとを避けて。/その日には、人間の高ぶる目は低くされ/傲慢な者は卑しめられ/主はただ一人、高く上げられる。」(イザ2:10-11)
 誰彼を頼むなかれ、ただ主にのみ依り頼め。

 良い章です。希望に満ちている。いまはへこたれることがあっても、必ず主は自らを依り頼む者、つまりあなたを救ってくれる。楽天的、というてよいかわかりませんが、心が洗われ、ほっ、とする章であります。わたくしはこの素朴な章に、「イザヤ書」の理念が集約されているような気がしてなりません。
 イザ2:4「彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする」は、小川国夫の長編小説『或る聖書』冒頭で印象的に使われている文言であります。この小説はなかなか手に入りにくくなっていますが、図書館にはたいてい所蔵されていると思います。万一、その図書館になくてもよその図書館から取り寄せてもらえます。是非、読んでみてください。わたくしが借りてきたのは、新潮社の《新潮現代文学》第65巻「小川国夫集」です。
 ところでイザ2:10「主の恐るべき御顔と、威光の輝きとを避けて」、「おそるべき」という言葉に宛てる字は、「恐」でよいのでしょうか。戦慄を催すその顔を見るな、というなら「恐」でもよいでしょうが、聖なる方の顔を直接見てはならない旨の記述が出エジプト記にあった。その伝でゆくなら、ここに宛てるべきは「恐」でなく、「畏」ではないか。むろん、原文で「恐」を想起させる表現がされているなら、謹んで訂正いたします。



 昨日公開したブログ原稿(第0979日目)にわれながら触発され、第2章のノートをパソコンに打ちこみながら、チェリビダッケのブルックナー交響曲第5番を聴いています。絶品! と紹介した1986年来日公演です。
 もう少し補足しますと、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団と来日したこの年の東京公演は、サントリー・ホールのオープニング・コンサートの一つでありました。1986年のツアーでブルックナーが演奏されたのは最後の公演地であるサントリー・ホールのみであった、とライナー・ノーツに岡本稔氏が書いております。他の都市ではムソルグスキー/ラヴェル編曲《展覧会の絵》とブラームスの交響曲第4番がメインの曲目であった由。
 この公演について、宇野功芳が著書でなんとかいうていたように思うが、そんなのはどうでもよいことだ。また、一連のオープニング・コンサートではベルリン・フィルも来日、演奏しているのですが、同道するはずであったカラヤンは病気のためにこの公演をキャンセル、急遽登板したのは弟子でもあった小澤征爾氏でありました。
 ブルックナーに限らず、晩年のチェリの演奏は概ねゆっくりしたペースで進むのですが、この第5番も例外ではない。否、ブルックナーになるとその傾向は顕著になる、と指摘してよいかもしれません。この曲がCD2枚組なんて、同類を求めようとしてもおいそれと見附かるものではない。が、チェリのブルックナーはそれゆえに神聖である。聴く者を呪縛し、驚嘆させ、歓喜をもたらす。斯くも解像度が高く、明晰で、響きの厚い演奏を他の指揮者に求めるのは残酷というものかもしれません。
 われらのしあわせは、チェリビダッケがブルックナーを愛し、演奏し続けた時代に居合わせたことではなかったでしょうか。つくづくそう思うのであります。◆

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第0982日目 〈イザヤ書第1章:〈ユダの審判〉&〈シオンの審判と救い〉withクラレンス・クレモンズが亡くなってしまった!〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第1章です。

 イザ1:1-20〈ユダの審判〉
 預言者イザヤがユダとエルサレムについて見た幻。

 主はこういわれる、━━わたしはイスラエルを育てて大きくした、そのイスラエルはわたしに背を向けた、と。
 家畜は仕えるべき人間を知っているが人間は仕えるべき神を忘れてしまった。斯様に堕落し、わたしに背いたイスラエルは災いである。「なぜ、お前たちは背きを重ね/なおも打たれようとするのか。」(イザ1:5)
 その背きが原因で約束の地は荒廃し、異民に蹂躙される━━あとにはシオンの娘、即ちエルサレムのみが四面楚歌の状態で残る。が、それさえも幸いである、わずかと雖も生存の途が示されるのだから。エルサレムは、ソドムのように失われたりしない。ゴモラのように滅びたりはしない。われらが万軍の主の愛ゆえに。
 「ソドムの支配者らよ、主の言葉を聞け。/ゴモラの民よ/わたしたちの神の教えに耳を傾けよ。」(イザ1:10)
 律法で定められた規則へ従うばかりの、気持ちの入っていない献げ物には飽き飽きだ。律法に定められているから、というだけで惰性的に営まれる安息日や祭日にも耐えられない。災いをもたらすばかりで、いまやそれらは憎しみの対象でしかないのだ、わたしには。
 「お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。/どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。/お前たちの血にまみれた手を/洗って、清くせよ。/悪い行いをわたしの目の前から取り除け。/悪を行うことをやめ/善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取するものを懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。」(イザ1:15-17)
 論じあおう、と主はいわれた━━と、預言者イザヤがいった。まだ罪は贖える。進んで従うなら幸い、かたくなに背くなら剣、それがイスラエルに待つ未来。主の口がそう宣言された。

 イザ1:21-31〈シオンの審判と救い〉
 お前よ、シオンの娘よ、なぜ、そんな風になってしまったのだ。なぜわたしへの信仰をないがしろにして、蛮神・蛮民へ魂を売り渡すのか。無慈悲なる支配者、そは盗人なり。弱き者の権利も声も踏みつぶされる。災いだ。
 その災いゆえにわたしは、「逆らう者を必ず罰し/敵対する者に報復する。/わたしは手を翻し/灰汁をもってお前の滓を溶かし/不純なものをことごとく取り去る。」(イザ1:24-25)斯くしてシオンは再び昔日の栄光と信仰を回復する。
 「シオンは裁きをとおして贖われ/悔い改める者は恵みの御業によって贖われる。/背く者と罪人は共に打ち砕かれ/主を捨てる者は断たれる。」(イザ1:27-28)
 ━━いまのイスラエルはわたしへの信仰ゆえに恥辱を受け、嘲笑されよう。「ソドムの支配者らよ、主の言葉を聞け。/ゴモラの民よ/わたしたちの神の教えに耳を傾けよ。」(イザ1:10)

 堕落した民の営みに見切りを付けて、主はかれらが捕囚として遠くの地へ連れてゆかれる未来を、イザヤへ見せて、告げます。彼にとってはまさに黙示録的光景であったでしょう。イザヤが預かった主の言葉は、ユダヤ人が離散し、再び集められることを伝える預言でもあります。



 長く<ボス>と行動を共にしてきた、The E Street Bandのサックス奏者クラレンス・クレモンズ氏が亡くなりました。脳卒中でかねてより療養中であった、という。享年69。サックスという楽器の凄さ、格好良さを教えてくれたクラレンス・クレモンズ。あの豪快なサックスの響きを、もう聴くことはできない。
 いまのわれらにできることは、ボスのアルバム、もしくはクラレンス“ビッグマン”クレモンズのソロ・アルバムをトレイに載せ、スピーカーやイヤフォンから流れる至芸に耳を傾け、その響きを決して忘れないよう胸へ刻みこむことかもしれません。
 謹んでご冥福をお祈りいたします。
 Where we reary want to go/And we'll walk in the sun/But till then tramps like us/Baby we were born to run.(from B.Springsteen“BORN TO RUN”)
 I'll keep movin' through the dark with you in my heart/My blood brother.(from B.Springsteen“BLOOD BROTHERS”)◆

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第0981日目 〈「イザヤ書」前夜〉 [イザヤ書]

 明日から聖書読書ノートを再開、「イザヤ書」に入ります。「イザヤ書」は旧約聖書第23番目の書物であり、全66章という「詩編」に次ぐ大部の書物でもあります。旧約後半1/3を占める16の預言書はこの書物から始まるのです。
 表題のイザヤは預言者の名、「アモツの子」と紹介されます。南王国ユダがアハズ、ヒゼキヤ王の御代に特に活躍した人で、既に王下19-20で登場済みの人物です。北王国イスラエルがアッシリアの前に瓦解し、ユダも外敵の(これまでにない)脅威にさらされ続けた時代、イザヤは王都エルサレムに在って「ただ主にのみ依り頼め」と非戦を訴えました。
 そんな人物の名を冠した預言書は、やがて来たるエルサレム陥落と南王国ユダの崩壊を預言し、メシヤの到来(メシア預言)、「黙示録」に通じる新しいエルサレムの到来を語ります。そんな内容のためか、「イザヤ書」は新約聖書にいちばん多く引用される旧約の書物でありました。さんさんかが使用している新共同訳の付録「新約聖書に於ける旧約聖書の引用箇所一覧」に拠れば、65ヶ所が「イザヤ書」からの引用となっています。
 本ブログでもたびたびその名を出すヘンリー・H・ハーレイはこの書物、殊そのメシア預言に触れて、「旧約聖書のメシア預言の書として卓越したものである。イザヤが来たるべきメシアの統治の栄光に有頂天になるとき、その言語は全文学中最高のものとなる」(P497)といっております。
 さっき「イザヤ書」は全66章で構成されている、と書きました。しかしながらイザヤ一人がこの書物を著したわけではありません。内容や思想、或いは文体から、それは3つのパートに分けられる。こんな風にです、━━
 ・第一イザヤ書:イザ1-39
 ・第二イザヤ書:イザ40-55
 ・第三イザヤ書:イザ56-66
━━このうち、第一イザヤ書は預言者イザヤ自身の手に成り、また1-5章は序論であります。第二、第三イザヤ書は思想をイザヤと同じうする、もしくは近しくする、いわば<イザヤ学派>とでもいうべきグループのなかにいた無名の預言者の筆に成る、とのことであります。でも第二、第三イザヤ書が書かれたのは預言者イザヤの時代からずっとくだった捕囚解放の前後の時代、と考えられるのが専らである。理由の一端として、前625年のカルデア人ナボポラッサルによる新バニロニア帝国の樹立を念頭に置いていたり(イザ13:19)、前538年に捕囚解放を宣言したペルシア王キュロスの名があったりするためです(イザ45:1)。
 なお、一つだけお願いがあります。「イザヤ書」は既に読んできた「列王記・下」や「歴代誌・下」とも関わってくること密な書物です。機会を設けて当該箇所を繙き、読んでいただければ、もっと理解は深まると思います。また、高校時代に使用した西洋史の教科書や市販されている世界史の本なども手許にあれば、忘れかけているイスラエルとユダのたどる歴史を思い出せて楽しい、と思います。
 「イザヤ書」は久々に読み応えある書物、誤解を恐れずにいえば、実に旧約聖書らしい内容と思想を孕んだ書物であります。新約聖書を読む際も非常に重要になってくる書物でもありますので、楽しみつつもがっつりと、怯むことなく読んでゆきます。◆

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