第0011日目 [出エジプト記]

出エジプト記27章を読みました。
なんだかやっと先が見えてきた、という感じです。
このあたりはみないちど読み、また読み直して考える作業(?)が続いてきました。
これからも、その読み方は変えられないかな、と思うております。


27章で、主はモーセにいいました。

持ち運びのできるよう、中を空洞にした祭壇を作りなさい。
指定した方法で、幔幕を四囲にめぐらせて幕屋の庭を囲い、
純粋の油をともしびにする常夜灯を作り、至聖所の垂れ幕の前に置きなさい。


法の規定の項目(出20:1)以来、主はモーセに、民がしなくてはならないこと(してはならないこと)、やるべきこと、作るべきもの、など、細かに指定してきました。
それらはすべて、これまで見てきたように、これからも見るように、聖書に寸分洩らさず記されています。
聖書を読んで挫折する人の多くは人名の列挙に嫌気がさしたのだ、とよく聞きますが、それだけでしょうか。そういう人も、いるにはいるでしょう。たぶん、途中から読んだらそうなるのも道理であろう、と思います。
素人考えで恐縮ですけれど、聖書を始めから、創世記1:1から読んできたら、その程度では挫折はしません。
そういう場合に(そうしてこれが多いではないか、と勝手に推測しますが)挫折する可能性が最も高く、聖書と永遠にさよならする可能性が高いのは、いま読んでいるまさにこのあたりではないのでしょうか。
というのも、幕屋の建設、小物の造作、いずれもこれまでは出てこなかった事柄であり、これまであった物語的要素が姿を消すからであります。正直、いま読んでいる箇所が、いちばん緊張感も集中力も途絶えがちです。
自分の体験をベースにしかお話しできませんが、そんな風に思わせられることたびたびな、出エジプト記後半部分です。

でも、主からの命令通りに作られた幕屋や小物類は、これからのお話の背景になるでしょう。
そのときになってどれだけ理解ができているのか、お話の背後に隠れた意味を理解できるか。いままで読んできた部分を咀嚼できているかどうかで変わってくることでしょう。
あわてたりしないよう、いまはひたすらじっくり、ゆっくり読んでゆきます。
それに、聖書に速読は似合わない。言葉の一つ一つを噛みしめて読むよりないのだ、と、ようやくわかってきました。

ゆっくり、丁寧に。


昨日の面接の結果が伝えられる日を不安に待っている今日、図書館から環境問題の本を借りました。◆

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