第0225日目 〈士師記第4章:〈デボラとバラク〉〉 [士師記]
士師記第4章です。
士4:1-24〈デボラとバラク〉
嘗ての士師エフドが逝くと、再たイスラエルは乱れた。主はカナンの王ヤビンに民を売り渡したため、ヤビン王は20年の間彼らの上に在った。
民が助けを願ったので、主は女預言者デボラを士師に立てた。イスラエルは彼女に裁かれた。そして、彼女の采配になるカナン攻めが始まる。
デボラはナフタリの山地ケデシュの町からアビアノムの息子バラクを呼び寄せた。そこで主の命令を伝えた。ゼブルン人とナフタリ人計10,000人をタボル山へ集結させ、キション川に集まるヤビンの軍を破れ、と。「私は彼をお前の手に渡す。」(士4:7)
バラクはデボラと連れ立って戦うことを望み、デボラはそれを諾った。但し、戦勝の栄誉に浴するのはデボラのみである。「主は女の手にシセラを売り渡されるからである。」(士4:9)
シセラはヤビン王の将軍で、ハロシェト・ハゴイムに住んでいた。彼はイスラエルの蜂起を聞くと、900両の鉄の戦車と自身の軍を率いて、キション川へ向かった。両軍は激突し、シセラは敗走した。
━━双方の軍がぶつかり合うに期を同じうして、「カイン人のへベルがモーセのしゅうとホバブの人々、カインから離れて、ケデシュに近いエロン・ベツァアナニムの辺りに天幕を張っていた。」(士4:11)(註1)というのも、「ハツォルの王ヤビンとカイン人へベル一族との間は友好的であったからである。」(士4:17)
シセルはへベルの妻ヤエルにかくまわれて、しばしの休息を取った。
眠るシセラのこめかみに、ヤエルは地まで突き刺すほどに釘を打ち、これを死に至らしめた。敗走するシセラを追撃してきたバラクに、ヤエルは死した敵の将軍の骸(むくろ)を見せた。
「神はその日、カナンの王ヤビンをイスラエルの人々の前で屈服させてくださった。イスラエルの人々の手は、次第にカナンの王ヤビンを圧するようになり、ついにカナンの王ヤビンを滅ぼすに至った。」(士4:23-24)
註1)モーセのしゅうとホバブは、イスラエルとは因縁浅からぬミディアン人であった(出2:16,21、民10:29)。
猶この引用箇所、新改訳聖書では下の如く訳される。
「ケニ人ヘベルは、モーセの義兄弟ホバブの子孫のカインから離れて、ケデシュの近くのツァアナニムの樫の木のそばで天幕を張っていた。」
ここに限っていえば、新改訳の方が日本語としてずっと正常だ。新共同訳は常に本文を切磋する必要あり。
聖書と雖も、まず日本語として読むに耐える、磨きあげられた文章であることが最優先。その上で正確な翻訳を目指して改訂を繰り返されるのが、理想的な筈。それとも、聖書の翻訳とは巷に溢れる翻訳とはまったく別次元の、若干なら日本語として機能していない訳文があってもいい、というのか。
せっかくカトリックとプロテスタントが共同して翻訳を作成するようになったのだから、英語に於ける欽定訳聖書の如き存在の日本語聖書であることが、新共同訳に課せられた課題ではあるまいか。
さて。
殊この章に限ったわけではないのですが第4章で顕著なこととして、視点や文章の主語が定まらない(腰が据わっていない)ために、全体のまとまりを若干欠くように思われてならぬのであります。
読み返すたび、その感はますます深まってゆくのである、と自身の覚え書きも兼ねて、ここに記し残しておきます。
読む本がなくなった帰りの電車のなかで考えた。こんなこと、……
……ヘミングウェイ、スタインベック、フィッツジェラルド、ラヴクラフト、フォークナー、O・ヘンリー。20世紀前半のアメリカ文学の好みを篩(ふるい)にかけると、なんのおもしろみもない上述のリストができあがります(順不同)。
アニタ・ルースやエリナ・グリン、ヴァン・ベクテンなど大衆小説の書き手で好きな人もいますが、敢えて手許に残すとなれば、結局あの6人のみ。
んんん、仮にこれが20世紀後半なら……そうですね、キング、カーヴァー、サリンジャー、チャンドラー、デリーロ、か(同じく順不同)。いやいや、もっと他に誰かがいたような……。
ああ、酒のせいで思い出せない……!!◆
士4:1-24〈デボラとバラク〉
嘗ての士師エフドが逝くと、再たイスラエルは乱れた。主はカナンの王ヤビンに民を売り渡したため、ヤビン王は20年の間彼らの上に在った。
民が助けを願ったので、主は女預言者デボラを士師に立てた。イスラエルは彼女に裁かれた。そして、彼女の采配になるカナン攻めが始まる。
デボラはナフタリの山地ケデシュの町からアビアノムの息子バラクを呼び寄せた。そこで主の命令を伝えた。ゼブルン人とナフタリ人計10,000人をタボル山へ集結させ、キション川に集まるヤビンの軍を破れ、と。「私は彼をお前の手に渡す。」(士4:7)
バラクはデボラと連れ立って戦うことを望み、デボラはそれを諾った。但し、戦勝の栄誉に浴するのはデボラのみである。「主は女の手にシセラを売り渡されるからである。」(士4:9)
シセラはヤビン王の将軍で、ハロシェト・ハゴイムに住んでいた。彼はイスラエルの蜂起を聞くと、900両の鉄の戦車と自身の軍を率いて、キション川へ向かった。両軍は激突し、シセラは敗走した。
━━双方の軍がぶつかり合うに期を同じうして、「カイン人のへベルがモーセのしゅうとホバブの人々、カインから離れて、ケデシュに近いエロン・ベツァアナニムの辺りに天幕を張っていた。」(士4:11)(註1)というのも、「ハツォルの王ヤビンとカイン人へベル一族との間は友好的であったからである。」(士4:17)
シセルはへベルの妻ヤエルにかくまわれて、しばしの休息を取った。
眠るシセラのこめかみに、ヤエルは地まで突き刺すほどに釘を打ち、これを死に至らしめた。敗走するシセラを追撃してきたバラクに、ヤエルは死した敵の将軍の骸(むくろ)を見せた。
「神はその日、カナンの王ヤビンをイスラエルの人々の前で屈服させてくださった。イスラエルの人々の手は、次第にカナンの王ヤビンを圧するようになり、ついにカナンの王ヤビンを滅ぼすに至った。」(士4:23-24)
註1)モーセのしゅうとホバブは、イスラエルとは因縁浅からぬミディアン人であった(出2:16,21、民10:29)。
猶この引用箇所、新改訳聖書では下の如く訳される。
「ケニ人ヘベルは、モーセの義兄弟ホバブの子孫のカインから離れて、ケデシュの近くのツァアナニムの樫の木のそばで天幕を張っていた。」
ここに限っていえば、新改訳の方が日本語としてずっと正常だ。新共同訳は常に本文を切磋する必要あり。
聖書と雖も、まず日本語として読むに耐える、磨きあげられた文章であることが最優先。その上で正確な翻訳を目指して改訂を繰り返されるのが、理想的な筈。それとも、聖書の翻訳とは巷に溢れる翻訳とはまったく別次元の、若干なら日本語として機能していない訳文があってもいい、というのか。
せっかくカトリックとプロテスタントが共同して翻訳を作成するようになったのだから、英語に於ける欽定訳聖書の如き存在の日本語聖書であることが、新共同訳に課せられた課題ではあるまいか。
さて。
殊この章に限ったわけではないのですが第4章で顕著なこととして、視点や文章の主語が定まらない(腰が据わっていない)ために、全体のまとまりを若干欠くように思われてならぬのであります。
読み返すたび、その感はますます深まってゆくのである、と自身の覚え書きも兼ねて、ここに記し残しておきます。
読む本がなくなった帰りの電車のなかで考えた。こんなこと、……
……ヘミングウェイ、スタインベック、フィッツジェラルド、ラヴクラフト、フォークナー、O・ヘンリー。20世紀前半のアメリカ文学の好みを篩(ふるい)にかけると、なんのおもしろみもない上述のリストができあがります(順不同)。
アニタ・ルースやエリナ・グリン、ヴァン・ベクテンなど大衆小説の書き手で好きな人もいますが、敢えて手許に残すとなれば、結局あの6人のみ。
んんん、仮にこれが20世紀後半なら……そうですね、キング、カーヴァー、サリンジャー、チャンドラー、デリーロ、か(同じく順不同)。いやいや、もっと他に誰かがいたような……。
ああ、酒のせいで思い出せない……!!◆
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