第0460日目 〈歴代誌上第8章:〈ベニヤミンの子孫〉&ドストエフスキー『地下室の手記』読了〉 [歴代誌・上]

 歴代誌上第8章です。

 代上8:1-40〈ベニヤミンの子孫〉
 イスラエルの子ベニヤミンには5人の息子がいて、それぞれが、それぞれの代で子孫を増やしていった。名を挙げれば、長安ベラ、次男アシュベル、三男アフラ、四男ノハ、五男ラファ、である。
 彼らの子孫は、「それぞれの系譜による一族の頭たち」(岩波Ⅶ『歴代誌』P86)を出した。「一族の頭たち」とは、「家系の長」の意である。
 代上8:29-40はギブオンのエフライム族の系譜。換言すれば、イスラエルの初代の王サウルの家系譜である。
 ギブオンの父(エヒエル。代上9:35)と妻マアカから出た子孫の一人こそがサウルその人。但し、祖父として記されるネル(代上8:33)、父として記されるキシュ(同)は、サム上14:50-51では二人とも叔父となっている。
 また、「サウル家の一族の出で、ゲラの子、名をシムイという男」(サム下16:5)も、ここへ連なる者である。シムイは王都エルサレムを脱出したダビデ王とその一行へ、悪罵を吐きながら石礫を投げつけていた者。

 後半にあるサウルの系譜は、次章でもう一度繰り返されます。



 ドストエフスキーの『地下室の手記』を読了しました。これはなんとも嫌な小説です。が、これも、わたくしは実に気に入ってしまったのであります!
 一般に、人は自分に似たものを生理的に嫌悪する、と申します。ここでいう〈もの〉は〈物〉であり〈者〉であり、〈要素〉を含みもします。『地下室の手記』はまさしく自分にとって、自分がそこに映し出されているような錯覚と嫌悪を抱いたがゆえに、嫌いな小説でもあり好きな小説でもある、と申し上げてよろしかろうと思います。
 殊に第2部、世間に交わろうとしても、如何なる訳でか、世間に受け入れられぬ主人公の姿は、嗚呼、これをわたくしである、といわずになんといおう。爪弾きにされるのをわかっていながら、なおも世間へ同化しようと無意識に試みることは、果たして罪なのでありましょうか?
 束の間訪れて留まるかに見えた幸福も、主人公の〈負け犬意識〉が頭をもたげて、ご破算となり去ってゆく……おそらく永久に! そうして彼は、“地下室”へこもって、逆説と哀惜に彩られた告白を続ける。……。
 フランスの作家、ジッドが本作を評した言葉は有名です(「ドストエフスキーの全作品を読み解く鍵である」)。が、わたくしにはそれに深く賛同の意を表すと共に、否、それ以上にこの『地下室の手記』は、シベリア流刑から帰って執筆、文壇への復帰作となった、あの『死の家の記録』と表裏一体を成す作品、と読めてならないのであります。
 わたくしの読解力の不足を棚に上げて申しますが、これは、一度読んだだけではなかなか理解できない小説であるように思います。理解、という言葉は、ちょっと不的確かもしれません。が、そこに盛られたちょっとしたニュアンス、陰影の移ろいなどは、一度だけでは摑み取ることが難しいのではあるまいか、とは考えております。要するに、時間を置いて再読すべき小説である、ということであります。
 『罪と罰』と『カラマーゾフの兄弟』がやたらクローズアップされがちな現代のドストエフスキー受容ですが、と同時に、それらを手にする読者諸兄はすべからく『地下室の手記』をも繙いてほしい、と願うのであります。
 なお、過日に本ブログで疑念を抱いた箇所ですが、光文社古典新訳文庫の当該箇所は「自分が正しい道を行っているのか」となっておりました。なるほど。
 『地下室の手記』を読み終えたいま、このブログ原稿を認(したた)めながら頭の片隅では、『貧しき人々』を読み直そうか、それとも5大長編の嚆矢『罪と罰』に進もうか、と楽しい迷いで頭を悩ませております。◆

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