第0756日目 〈詩編第064篇:〈神よ、悩み訴えるわたしの声をお聞きください。〉〉 [詩編]

 詩編第64篇です。

 詩64:1-11〈神よ、悩み訴えるわたしの声をお聞きください。〉
 題詞は「指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。」

 目には目を、というべきなのか、因果応報、と表現すべきなのか、正直迷うている。旧約聖書ではもう嫌気がさす程目にしてきた構図━━敵がわたしを欺き、突然人々へ悪事を謀る。が、神なる主は報復するかのように突然、敵を討つのだ。みなは恐れて主の御業に目覚めるだろう━━だが、こちらも忍耐強くそれに相対そう。
 敵の張り巡らす罠は巧みだ。「人は胸に深慮を隠す」(詩64:7)とまで彼らはいう。物陰に身を潜ませ、無垢な人を、正しい人を、巧みに唆して暗黒面へ引きずりこむ。それに抗い、浄化する力を持つのは━━決定的な意味での<力の持ち主>は、とどのつまりは<神>ということになる。人間はあくまで代理人に過ぎず、悪を謀る敵を全地から滅ぼすことはできない、ということか。
 悪は栄える。なぜならば、道を外れた行いは、或る種の法悦(エクスタシー)をもたらすからだ。それゆえに彼らは恐れない。その彼らを打ち倒すからこそ神の御業は偉大であり、御業を目の当たりにした者は神なる主を畏れ、主なる神を恐れて、讃仰するのだ。この図式はそのまま聖書全体を〆括る「ヨハネの黙示録」にも当てはめられよう。
 悪は常に魅力的である。ゆえにこそ危険である。

 「神よ、悩み訴えるわたしの声をお聞きください。/敵の脅威からわたしの命をお守りください。/わたしを隠してください/さいなむ者の集いから、悪を行う者の騒ぎから。」(詩64:2-3)

 「彼らは悪事にたけ、共謀して罠を仕掛け/『見抜かれることはない』と言います。/巧妙に悪を謀り/『我らの謀は巧妙で完全だ。/人は胸に深慮を隠す。』と言います。」(詩64:6-7)



 疑問がある。なぜ、自分は赤川次郎を読まなくなったのか。やはり高校時代は夢中だった。文庫化された作品を片端から読み潰してゆき、当時刊行されていた文庫の2/3は読破したのでないか。でも成人してしばらくすると、だんだん離れていった。なぜか?
 その時期はちょうど読書の関心が日本の古典文学に比重が傾き、並行して近現代の海外小説を本格的に読み出す時期であった。赤川次郎から離れたのは、おそらくその為だ。読んでも満足することはなく、却って欲求不満になっていったのだ。もっと良い小説を、もっと読み応えのあるがっちりした小説を、読みたい。そんな思いがエンタメ小説との訣別となり、国内外の古典へ自分を向かわせたのだ。
 エッセイは途切れることなく読んでいると雖も、肝心の小説は『さすらい』と『霧の夜の戦慄』しか、この数年で新しく読んだ作品はない。『怪談人恋坂』は文庫による再読だったから勘定に入れない。どうだろう、この激減ぶり。
 赤川ブランドを純粋に楽しんだ最後の時期に読んだ作品は、『作者消失』と『そして、楽隊は行く』、『晩夏』、『幽霊の径』(と『怪談人恋坂』)といったところか。偽りないところを告白させていただけば、近頃赤川次郎を読み通すのが苦痛になってきている。以前なら普通の厚さは1時間強、だいたい2-3時間で読み終えられた。が、『さすらい』に至っては1章1日という、とんでもなく遅いペースでようやっと巻を閉じたのだ。
 先日、ほぼ同い年の人と話す機会があったのだが、その人は中学時代から未だ情熱衰えることなく赤川次郎を読み続けている、という。ただ自分の楽しみのためだけに!
 そういう人と較べてみると、単に興味が他へ移っただけなのか、と思う。が、━━否、といおう。それだけではない。他に様々読んできたが為にこちらの背丈が伸びたのだ。それゆえにいつの間にやら赤川次郎では満足できなくなったのだ。それが、読まなくなった最大の理由だ。
 体力? それはどうだかわからぬ。少なくとも1冊を読み通し、間断なく読み続けるフットワークは、確かになくなった。しかし、それはどの作家についてもいえることだ。事実、今年のドストエフスキー-太宰治はどうであったか? 余程のことがない限り、再び赤川次郎の新作に手を(率先して)伸ばすことはないだろう。淋しいことだが、仕方がない。でも、学生時代に読んだ彼の小説は、いまでも大切に保管している。ページを開けば、あのときのときめきとドキドキワクワクを、すぐに思い出せる。◆

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