第0758日目 〈詩編第066篇:〈全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ。〉〉 [詩編]

 詩編第66篇です。

 詩66:1-20〈全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ。〉
 題詞は「指揮者によって。歌、賛歌。」

 神は民の信心を試すため、様々な御業を発揮してイスラエルに、諸国に、その力をあまねく知らしめた。詩66は、太古より示され続けた神の御業と栄光を讃美せよ、という詩だ。それを強く読者へ印象附けるのが、第7-9節である。手抜き、と誹られるのを覚悟でその箇所を引用する。曰く、━━
 「神はとこしえに力強く支配し/御目は国々を見渡す。/背く者は驕ることを許されない。/諸国の民よ、我らの神を祝し/賛美の歌声を響かせよ。/神は我らの魂に命を得させてくださる。/我らの足がよろめくのを許されない。」(詩66:7-9)
 本当は以上を以てわたくしの駄弁を終わらせるつもりだったのだが、一寸だけ妄言にお付き合い願いたい。第6節についてだ。
 「神は海を変えて乾いた地とされた」とあるのは、おそらくノアの箱船の挿話に絡めてのことであろう(心情的に「方舟」としたいが、新共同訳に従って「箱船」とする)。箱船がアララトの山頂に漂着して数ヶ月後、全地から水が引いて乾いた大地が現れた(創6-8)。これは神が人間に対して示した殆ど最初の大きな御業である。これを仰ぎ、讃えずしてどうしろというのか。また、同様に「人は大河であったところを歩いて渡った」とは、むろん、アロンとモーセに率いられた出エジプトの挿話が根っこにある(出14-15)。
 神なる主が如何に偉大で貴く正しい存在であるか、それを諸国の民へ教える力を大きく持った詩である、といえよう。プロパガンダ的詩篇、と断定してしまえば、もうそれこそ身も蓋もない話だけれど。

 「神はわたしの祈りを退けることなく/慈しみを拒まれませんでした。」(詩66:20)



 人はなぜ二心を持つのだろう。建て前と本音は、使い方を誤ればとても残酷な気遣いになる。概ねに於いて、人を疎外する者とは、また、それに同調を示す者らとは、相手を死に至らしめかねないことをしていることに気がつかない。彼らが追い詰められる立場の者になったら、果たしてどんな気持ちになるのであろう。それとも、そんな自分の境遇を甘んじて受け入れる覚悟を固めた上で、<誰か>を嘲り、中傷し、駆逐することに、目先の愉悦に、うつつを抜かしているのか? もしそうなら、ただのバカである。
 こんな輩どもが社会に出て、したり顔で社会や人間関係の機微など語っているのだから、もうなにをか況や、というところですね。くだらなさすぎて、溜め息も出ませんや。もっとはっきりいえば、いちばん嫌なのは、そんな人々の存在でなく、そんな人々の気まぐれな言動に左右されてしまう━━心がしっかりしていない自分なのですけれどね。
 嗚呼、強い心を持ちたいな。そう……ホレイショのような。◆

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