第0763日目 〈詩編第071篇:〈主よ、御もとに身を寄せます。〉〉 [詩編]

 詩編第71篇です。

 詩71:1-24〈主よ、御もとに身を寄せます。〉
 題詞なし。

 幼少時から老年に至るまでの間、主から心を離したり祈りを捧げるのを怠らなかった人の、信仰回顧の詩である。主に依り頼む気持ちは、老いて頭髪が白くなるとますます強固になった。そんな齢に差しかかったとき、彼は自分が悪意ある衆の標的となっているのを知った。それゆえ、幼な子の頃から信じて背かなかったイスラエルの神なる主に、私を救い出してください、と願うているのだ。
 ━━が、この詩で大事にせねばならぬのは、殆ど生まれ落ちたときから老境に至るまでの歳月、「多くの人」(詩71:7)に驚かれながらも主への信仰と信頼を片時たりとも失うことがなかった、という点にこそあろう。
 先にわたくしはこの詩を「信仰回顧の詩だ」と記した。その信仰とはもしかすると<信心深い>どころではなく<強迫観念>の域にまで達しているかもしれない。生まれついての信仰は、一歩誤ればオブセッションと化す可能性を孕んでいる。それでも、主への揺らぐことなき気持ちを大切にしているのは素晴らしいことなのかもしれない。なぜなら創世記この方、主が自分の民に求めてきたのは、それだからだ。ブレたりあやふやになったりすることなき悠久の愛と、ゆめ絶えることなき希望にあふれた讃美であるからだ。そうして時代が下るにつれて純度の高い信心の持ち主がどれだけ稀になってゆくか、われらはこれまで散々目にしてきている。
 嗣業の民としてあるべき姿、心を映した詩である一方で、ぎりぎりの境界で踏み留まることの難しさを伝える詩であるようにも、わたくしには思えている。

 「わたしは常に待ち望み/繰り返し、あなたを賛美します。/わたしの口は恵みの御業を/御救いを絶えることなく語り/なお、決して語り尽くすことはできません。/しかし主よ、わたしの主よ/わたしは力を奮い起こして進みいで/ひたすら恵みの御業を唱えましょう。/神よ、わたしの若いときから/あなた御自身が常に教えてくださるので/今に至るまでわたしは/驚くべき御業を語り伝えてきました。」(詩71:14-17)

 「わたしもまた、わたしの神よ/琴に合わせてあなたのまことに感謝をささげます。/イスラエルの聖なる方よ/わたしは竪琴に合わせてほめ歌をうたいます。/わたしの唇は喜びの声をあげ/あなたが贖ってくださったこの魂は/あなたにほめ歌をうたいます。/わたしの舌は絶えることなく/恵みの御業を歌います。」(詩71:22-24)



 来年の追っかけ作曲家はプロコフィエフとラフマニノフで決まった。共に20世紀ロシアの作曲家ながら印象は正反対。プロコフィエフのモダニズム、ラフマニノフのロマンティックに、じわじわ侵され、気附けばすっかり惚れていた。いや、<恋>って病気だね。◆

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