第0770日目 〈詩編第077篇:〈神に向かってわたしは声をあげ〉〉 [詩編]

 詩編第77篇です。

 詩77:1-21〈神に向かってわたしは声をあげ〉
 題詞は「指揮者によって。エドトンに合わせて。アサフの詩。賛歌。」

 以前詩71を読んだとき、作者個人の信仰回顧の詩である、と書いた。詩77も同じく信仰回顧の作品だが、こちらはイスラエル全体を指しているようだ。一人称で語られるのは、詩が本来<個>に帰属するものであるからに過ぎぬ。
 詩は個人的な信仰の悩みから始まり、天地創造という窮極の神の御業を顧み、かつアロンとモーセ兄弟を指導者とする出エジプトの栄光を語る。構造としては、詩77:11までを個人的な信仰の悩みを嘆き、詩77:12からは天地開闢-出エジプトの間に神が果たした役割、神が揮った御業に思い巡らすパートとなっている。まあ正直なところ、尻切れトンボで終わっているな、という気もするのだが。
 朴訥で真摯な調子があって、なかなか良いな、と思う詩だ。特に深く感じ入ったのは、こんな詩句だ、━━
 「夜、わたしの歌を心に思い続け/わたしの霊は悩んで問いかけます。」(詩77:7)
 眠られぬ夜々、このありがたくも不安に満ちた━━いつ終わるともしれぬ孤独の時間を過ごさねばならぬとき、われらは自らの心に問いかけることが多い。時により過ぐれば不安の連鎖(スパイラル)に陥り却って悶々とする場合もあるが、このブログにたびたび登場するスイスの人格者ヒルティは、まさしくこの眠られぬ夜を過ごすために、「」と説いた。詩77にわたくしが抱く感慨の基には、ヒルティ読書の経験があるのかもしれない。
 もう一つ、蛇足であるが、この詩を読んでいて、どうしても頭に浮かんでくるのを払いきれぬ、或る漫画の一場面があった。他ならぬ『ピーナツ』である。スヌーピーとチャーリー・ブラウン、というた方が通りはよいか。様々なエピソードのなかに、夜中に寝附けずにいるC.Bが自問し、闇のどこかで答える声がある、というものがあり、その場面、そのやり取りを思い出すのだ。詩77:8-11に於ける「わたしの霊」と「わたし」の問答は、チャーリー・ブラウンの孤独な夜のエピソードを想起させるにじゅうぶんな位置を━━すくなくともわたくしのなかでは━━占めている。
 おちゃらけたようにこんなことを書いていますが、詩77の中心をなし、いちばんのポイントとなるのはこの部分であることを、末筆ながら付け加えておきたいと思います。

 「苦難の襲うとき、わたしは主を求めます。/夜、わたしの手は疲れも知らず差し出され/わたしの魂は慰めを受け入れません。/神を思い続けて呻き/わたしの霊は悩んでなえ果てます。」(詩77:3-4)

 「夜、わたしの歌を心に思い続け/わたしの霊は悩んで問いかけます。/『主はとこしえに突き放し/再び喜び迎えてはくださらないのか。/主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。/約束は代々に断たれてしまったのだろうか。/神は憐れみを忘れ/怒って、同情を閉ざされたのであろうか。』/わたしは言います。/『いと高き神の右の御手は変わり/わたしは弱くされてしまった。』」(詩77:7-11)



 高層ビルの間から空が見える。雲の切れ間から姿を現す昼間の月が、ほぼまん丸に見えている。なぜだか、ちょっと気持ちが軽くなった。◆

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