第0771日目 〈詩編第078篇:わたしの民よ、わたしの教えを聞き〉〉 [詩編]

 詩編第78篇です。

 詩78:1-72〈わたしの民よ、わたしの教えを聞き〉
 題詞は「マスキール。アサフの詩。」

 昨日読んだ詩77と同じテーマ、イスラエル全体の信仰回顧を扱った詩。単独で(本ブログのように)一日一篇を読んでも構わぬが、この2篇についてはまとめて読んだ方が鑑賞も行き届くのではないか。
 この詩は、イスラエルがエジプトで奴隷の身に甘んじていた時分、神がエジプトに降した種々の災いに触れ、葦の海を渡って出エジプトを果たして以来荒れ野を彷徨している間、民が様々な不平や抵抗を行ったことと、それに対して神が憤って降した怒りに触れている。いうてみれば、出エジプトからカナン入植へ至るまでに民と神の間で起きた<疑問>と<回答>の回顧であり、一種のギヴ・アンド・テイクの詩である。━━民は荒れ野の40年の殆ど最初に、こんなに苦労するならエジプトにいた方がマシだった、と不平を垂れ、食物も水もない生活を神は果たして解決し得るのか、と疑問に思う。それへの回答として、神はシンの荒れ野にて天からマナを降らせ(出16)、レフディエムに於いてはモーセを通じて飲み水を与えた(メリバ。出17)。
 詩77をわたくしは朴訥とした調子、というたが、対して詩78は厳めしく重々しい調子がする。読んでいる最中、これまでに読んできた「出エジプト記」から「民数記」、「申命記」を経て、「ヨシュア記」、「士師記」、「サムエル記」の当該場面が走馬燈のようになって、まるでパッチワークのコラージュのように脳裏へ浮かんでは消えてゆく、なんて体験をしたせいかもしれない。……イスラエルは自らの行いによって災いを招いている(招いた)というのが、この詩を読んで改めて認識したところである。
 読者諸兄には是非の直接の鑑賞をお願いするより他ないから、これ以上わたくしの駄弁、妄言を綴る必要もあるまいと思うけれど、一点だけ補足しておきたい。
 詩78:67-68「主はヨセフの天幕を拒み/エフライム族を選ばず/ユダ族と、愛するシオンの山を選び」;王国以前のイスラエルを指導した2人の大人物がいる。即ちヨシュアとサムエルであるが、彼らはエフライム族の出身であった。神は悠久に続く王の家としてこのエフライム族ではなく、ユダ族を選んだ。なぜならばここから━━ルツを祖の一人とする━━かのダビデが現れるためである。申し添えるなら、メシアたるイエスの祖の一人はダビデであった。そうしてこのユダ族に与えられた嗣業の地はシオンの山、即ちエルサレムを擁する地である。ここで序(ついで)に記憶を新たにしておくと、モーセはレビ人、サウルはベニヤミン族の出身。諸々の士師については「士師記」を参照されよ。
 最後に詩78の、いちばん胆となる詩句を下に引く。

 「主はヤコブの中に定めを与え/イスラエルの中に教えを置き/それを子孫に示すように/わたしたちの先祖に命じられた。/子らが生まれ、後の世代が興るとき/彼らもそれを知り/その子らに語り継がなければならない。/子らが神に信頼を置き/神の御業を決して忘れず/その戒めを守るために/先祖のように/頑(かたくな)な反抗の世代とならないように/心が確かに定まらない世代/神に不忠実な霊の世代とならないように。」(詩78:5-8)

 「神は御心に留められた/人間は肉にすぎず/過ぎて再び帰らない風であることを。」(詩78:39)



 「だいじょうぶか、ブックオフは!?」とでも題したい独り言を、このあとに続けようと書きました。が、あまりに情けない話なので、お蔵入りとします。
 プルーストの『失われた時間を求めて』の新訳が刊行されていますが、買い悩んでいます。光文社古典新訳文庫か、岩波文庫か? 同じ全14巻を予定する両文庫。有名な冒頭部分とマドレーヌの場面を特に読み比べて検討しているのですが、一長一短ですな。訳文も、全体の注の付け方も、図版の選択も入れ方も、解説も、うーん、良い意味で本当に悩んでいます! どちらを買うか!? 他にお金の使い道がなければ(なんと贅沢な物言いだろう!)、両方買っちゃうですけれどねぇ。……。
 そうそう、ドストエフスキーの『白痴』は今日から下巻に入りました。楽しんで読んでいますよ。ムイシュキン公爵にはなんだか無条件の感銘と共感を抱きますね。アグラーヤもイポリートも、コーリャもガーニャも、ナスターシャ・フィリポヴナも、みんな、素敵だ。ぎゃんぎゃん喚くリザヴェータ夫人も、右往左往する将軍もむろん、例外ではない。こちらは、河出文庫の新訳に手を出さなくてよかったな、と安堵しています。◆

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