第0774日目 〈詩編第081篇:〈わたしたちの力の神に向かって喜び祝い〉&シルヴァン・カンブルラン=読売日響のハイドンとストラヴィンスキーを聴いてきました。〉 [詩編]

 詩編第81篇です。

 詩81:1-17〈わたしたちの力の神に向かって喜び祝い〉
 題詞は「指揮者によって。ギティトに合わせて。アサフの詩。」

 主の台詞をメインに据えた、神なる主の言葉、教えに背いたイスラエルの末路を詠う。これは詩編全体のなかでも、出来映えも質も劣る作物に思えて仕方ない。個人的なことをいえば、今日のこの詩篇は、今後どんなきっかけがあっても好きになれそうにない。
 主は、偶像崇拝ゆえにイスラエルを見放した。その経緯と顛末は、過去に読んだ各書物を読み返せば一目瞭然であろう。見放されたイスラエルは敵の手に渡され、主の心のまにまに翻弄された。イスラエルが主の言葉に従ったのなら、このようなことは起こらなかった。純粋に国家間の軍事力・政治力の均衡が崩れたなら大なり小なりの戦争はあったろうけれど、それはおそらくイスラエルの民が信じる神なる主の<思し召し>ではない。政府の無為無策に起因するところ大であろう。
 加えてわたくしには、詩81:16「主を憎む者が主に屈服し/この運命が永劫に続くように。」という詩句が、不正の隠蔽や責任転嫁の答弁としか思えないのである。それゆえに、詩詩81:2-4がオタメゴカシのように読めてならぬのですな。
 むろん、これが過去に学んで未来の糧にする類の詩である、とは承知の上で申しておる。



 カンブルランと読売日響の演奏家に行ってきました。至福の時間! もう大満足の演奏会でした。あんなに素晴らしくて親愛の情に満ちたハイドンが聴けたし、大興奮してアドレナリン全開にさせられたストラヴィンスキーも聴くことができた。席の良し悪しなんて、もうこの際だから不問にしましょう(笑)。
 一生懸命友人宛の手紙に感想を綴っていたのですけれど、これは棚上げ(放棄に近いかも)することにしました。上手くまとまらないんです。興奮しているから? それもあるけれど、うまい言葉が思い浮かばず、相応しい文章が生まれてこないのです。お喋りでなら、滔々といつまでも話すことが出来るのですけれど……。しばらく音楽について━━CD/DVD/映画でなく、生の演奏会について感想を認めることから離れていると、駄目になりますね。うん、今日それを実感しました。文章は毎日書かないと駄目になりますが、それ以上に、ジャンル・ライティングは時間を空ければ空ける程スキルは失われるのです。
 でも、この演奏会が自分にとってエポック・メイキングな出来事であったのは否定しない。感想にも書いたことですが、初めてカンブルランを生で聴いたのがこの日の演目で、本当によかった。お陰でますますわたくしはハイドンに夢中になり、ストラヴィンスキーを好きになりました。この人の指揮は洗練されていて、上品ですね。好きです。これ程指揮者とオケの相性の良さを実感させられるコンビも、最近では珍しいかもしれませんね。
 今日の感動をくれたカンブルランと読売日響に感謝。ホール・スタッフと白ワインに感謝。なによりも、この演奏会をプレゼントしてくれた母に、いっぱいの感謝を!◆

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