第0780日目 〈詩編第087篇:〈聖なる山に基を置き〉&蔵書の整理について。〉 [詩編]

 詩編第87篇です。

 詩87:1-7〈聖なる山に基を置き〉
 題詞は「コラの子の詩。賛歌。歌。」

 シオンを讃え、シオンより広がる神の栄光を讃える。
 諸国はこの地より生まれ出で、エジプトを指すラハブとバビロンというイスラエル史に欠くべからざる強国の名をイスラエルと共に挙げよう、と神は語る。なべては神なる主の許に生まれて従う者と記される。
 それを濃密に集約するのが最後の詩句である。曰く、━━
 「歌う者も踊る物も共に言う/『わたしの源はすべてあなたの中にある』と。」(詩87:7)
 関係ない話だが、ヨシュアのエリコ攻略を助けた女性も名をラハブといった(ヨシュ2:11)。この人は新約聖書「マタイによる福音書」1:5にてサルモンの妻、ボアズの母と記されてルツの姑にあたる。ここよりダビデとソロモンが出て、ヨセフが現れマリアを娶ってイエスが誕生する(マタ1:18-25,ルカ1:26-38,2:1-7)。



 お知らせです。昨日のブログの後半部分を全面改稿して、新たに掲載しています。時間が経つにつれ、その非道さに目を背けるわけにいかなくなったためです。どうぞ、ご了承ください。
 飽和状態になりつつあるわが書架を整理しようと考えているのだが、どこから手を着けてよいのかわからずにいる。いざ実行しようとすると、途端に目的意識も決意もうやむやになってしまうのだ。処分する本の山を想像すると、ゲンナリしてしまう……手を着ける前からこの体たらくか! これに較べれば数年前、何度かに分けて行ったCD約2,000枚の処分は割と簡単だったな。結構あれは思い切りのよい処分であった。その潔さを、本に関しては求められそうもない。未練や執着がCD以上にあるからだ。
 とはいえ、溜まったモノを捨てる基準は過去一年以内に必要としたか否か、であるらしい。でも、本の場合それは当てはまらない。いつ必要になるかわからないからだ。そんなことを思い思いしている内に、どんどん本は溜めこまれてゆき、限りある空間を圧迫してゆくことになる。いちばん馬鹿馬鹿しいのは、必要になった本を探そうとして見附けられず、途方に暮れて嫌気が差し、その本を使って書くエッセイなりを放棄することだ━━いや、流石にそこまで愚かな真似はしないけれどさ。
 誰がいうたか忘れたけれど、本の場合、処分するコツ、というか、残すか否かの判断基準は、過去に一度でも読んだかどうか、であるそうだ。一度読んだ本は手と目と記憶が覚えている。そのとき読んだ本は既に自分にとって唯一のものであり、例え同じ本であっても同じ本ではないのだ、ということである。ずっと以前、自分も同様の経験をしたからよくわかる。新たに買い直した本では駄目なのだ。それを読んでいた当時の自分とその延長線上にいる自分にとって、その本はまったく馴染みのない別種の印刷物でしかないのだ。そんな苦い思い出があるから、これまで本を売れずに来た。
 が、最早そんなことをいうてはおれぬ状態になろうとしている。そう、わが書架に収まる何割かは処分されねばならぬ。でもそれは、比較的富裕な時期に、或る種の衝動と好奇心に駆られてその場で買って結局は未だにページを開いていない、自分自身を形成する読書と関心のカテゴリーから外れる本でなくてはならぬ。しかも、それは概ね火事以後に買ったものでなくてはならぬのだ。
 そんな条件に都合よく合致する本は全体の本の一、二割であろうが、併せて雑誌やパンフレット類を処分すれば、この部屋もそれなりに片附くのではないか。十代の頃から馴染んできた神話や伝説を含めた広義の幻想文学やミステリ、東西の古典文学や音楽書、児童文学や、なにより肝心なレファレンス・ブックを核にして、あとは幾人かの好きな現代作家の著作を残せば、あとはそれ程多くを置いておく必要はないのかも知れない。それだけを書架に詰めて折に触れて読むことが出来れば、それだけで案外しあわせで身軽になれそうな気がしている。
 久しぶりに引っ張り出したビル・エヴァンス・トリオの『ワルツ・フォー・デビイ』を部屋に流して、うーむ、と両腕を組んで周囲に積みあげられた書籍の山、書架へ詰めに詰めこまれた本を睨みながらプロジェクト決行の決意が訪れる瞬間を、待ち侘びているような、来てほしくないような、そんな微妙な心のブレに悩まされているのであります。やンなっちゃうよね、なんか。◆

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