第0792日目 〈詩編第094篇:〈主よ、報復の神として〉〉 [詩編]

 詩編第94篇です。

 詩94:1-23〈主よ、報復の神として〉
 題詞なし。

 おなじみということは主要な、と言い替えてよいのでもあろう。この詩94のテーマのことだ。神に逆らう者が神に従う人を攻撃する、どうか主よ、彼らに報復して彼らを滅ぼし尽くしてください。「主よ、報復の神として/報復の神として顕現し/全地の裁き手として立ち上がり/誇る者を罰してください。」(詩94:1-2)
 ふと思うたのだが、なにか、或いは誰かを<信じる>というのは、恋にも等しい感情なのだろうか。思慕と信頼が底にある限りは、あんがい両者はとても近しいものであるのかもしれない。この詩句、即ち、━━
 「わたしの胸が思い煩いに占められたとき/あなたの慰めが/わたしの魂の楽しみとなりました。」(詩94:19)
━━を読んで、読み返していると、そんなことを思うのだ。あなたはどうだろうか? ここで訳された「楽しみ」は「支え」もしくは「潤い」という意味合いで取れば良かろうと思う。

 「(主に諭され教えられた)その人は苦難の襲うときにも静かに待ちます。」(詩94:13)
 そうしてやがて、
 「正しい裁きは再び確立し/心の真っ直ぐな人は皆、それに従うでしょう。」(詩94:15)



 「道未だ遠し」の感がある。「詩編」は既に半分以上を消化、あと60篇弱を残すばかりとなって先がようやく見えてきた気もする。が、旧約聖書の未読部分にはまだ「箴言」や「雅歌」、「イザヤ書」などの他、「エゼキエル書」や「ダニエル書」といった預言書が全巻残されている。旧約聖書の最後のページにたどり着くのは、果たしていつのことだろう。旅は始まってだいぶ経つが、目的地ははるか先の場所にある。旧約聖書が終わるまでにあと1年強、旧約聖書続編と新約聖書についてはそれぞれ約18ヶ月程度は必要となろう。
 それまでむろん、このブログは続けるが(それだけは唯一確かな約束として、諸君と交わそう)その折節のわたくしがどうなっているかはまったくわからない。人生とは有為転変するものだ。道の先にいる自分がどこにいてなにをしているのかなんて、皆目見当が付かない。この年齢になると、人生とはままならぬものだ、と知り、人の裏切りや誹謗中傷に遭うことも諦め半分に受け容れられるようになる。人生をありのままに受け容れられるのはよいことなのかもしれないが、それに慣らされてしまってはよくないと思う。
 人生のなかばの時期、ほぼ毎日聖書を読んでそれについて考えていると、ああ、これはわかるな、と感じる部分も多々出て来る。本を読むにはそれにふさわしい時期がある、と、わたくしはいま聖書をゆっくり読みながら、噛みしめて思うところ多々なのである。◆

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