第0795日目 〈詩編第097篇:〈主こそ王〉〉 [詩編]

 詩編第97篇です。

 詩97:1-12〈主こそ王〉
 題詞なし。

 前の詩96は諸国の神々をすべてむなしいものとし、その民に主の御名を唱えよ、と、いわば改宗を暗に促す内容であったが、この詩97も同じ傾向の作物である。ここで諸国の民は偶像に仕える者とされ、更に「むなしい神々を誇りとする者は恥を受ける」(詩97:7)とまで断言される。だから、われらが神、われらが主の信仰へ改宗せよ、と。
 信仰を同じにするならば出自は問われたりしない、なぜならば主の前にみなが平等だからである。━━これは、なんと行き届いた配慮であろう。身分も財産も言葉も肌の色も主義主張さえも、主を信じ、主を敬い、その道を正しく歩くならば、特に問題とはされない。この平等さが根本にしっかり据えられていたことが、キリスト教が世界第一の宗教になり得た一因かもしれない。が、<信仰>云々はともかくとして、<なにか>の前に万人は平等って、救われる気持ちになりますよね。でも一方では要らぬ混乱も招きそうで……はあ、やれやれ、ってところですか。

 (嗣業の民であろうと諸国の民であろうと)
 「主を愛する人は悪を憎む。/主の慈しみに生きる人の魂を主は守り/神に逆らう者の手から助け出してくださる。/神に従う人のためには光を/心のまっすぐな人のためには喜びを/種蒔いてくださる。/神に従う人よ、主にあって喜び祝え。/聖なる御名に感謝をささげよ。」(詩97:10-12)



 ラム『シェイクスピア物語』を読了し、ようやく昨日からドストエフスキー『白痴』再読を開始したのだが、今回は意外と内容やらなにやらをしっかりと覚えていて、うれしい限りである。もっと驚いたことに、物語の新鮮さは失われず、まるでブランクがまったくないかのような再びの開幕であったのだ。嗚呼、読者諸兄よ、果たしておわかりいただけるだろうか、この感覚を? ただちょっとだけ肩すかしを喰らったのは、下巻のまだ1/3にも至っていなかった、ということ。もう少し先まで読んでいたような気がしたのだがなぁ……。それだけ内容が濃かった、ということか。……まぁ、そういうことにしておこう。
 ━━ところで昨日の帰り、ふと途中下車した隣り駅のサンマルクカフェで聖書のノートを記した帰り、これまたふとした思いつきで反対側の古書店へ行ったのだが、なんと! 旺文社文庫から刊行されていた『シェイクスピア物語』上下巻(大場建治訳)を310円で発見、購入したのだ! こればかりは迷わず買って帰りました。いや、帰り道の国道脇の歩道を歩くのは寒かったよ。初版本の挿絵が掲載されているのが特徴だが、訳文は松本訳より平易で親しみやすい。でも、やっぱり「ですます」調に馴れた身には、「である」調の大場訳に若干の違和感を覚えるのは否定できません。充実した解説は読み応えあり。◆

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。