第0796日目 〈詩編第098篇:〈新しい歌を主に向かって歌え。〉〉 [詩編]

 詩編第98篇です。

 詩98:1-9〈新しい歌を主に向かって歌え。〉
 題詞は「賛歌。」

 賛歌━━この詩はまさしく主の栄光を讃える民の歓声である。主の来臨を期待する内奥の喜びの吐露である。
 自ら創造した者へ果たした御業を讃える馴染みの表現も、本詩のなかに組みこまれると非常に坐りがよく感じられ、ようやく安住の場を見出して腰を落ち着けた━━本来あるべき位置に落ち着いた、との思いを抱くのだ。
 下には引かぬ箇所へもみな様には是非あたっていただきたい。

 「地の果てまですべての人は/わたしたちの神の救いの御業を見た。」(詩98:3)

 「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。/歓声をあげ、喜び祝い、ほめ歌え。/琴に合わせてほめ歌え/琴に合わせて、楽の音に合わせて。/ラッパを吹き、角笛を響かせて/王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ。」(詩98:4-6)



 聴き馴染んでくると、個性的な演奏が逆に、自分のなかでスタンダードになったりする。ブラームスのピアノ曲についていえば、アファナシエフの演奏がそれにあたる。結局、シューベルトもムソルグスキーも未だ買わずにいるが、ブラームスの演奏だけでこの人については満足できているのだ。透明感のある響き、くすんだなかに時折きらめく曙光のプリズムが、心を惹きつけてやまないのである。
 ほぼ同じ曲目を残しているグールドのCD、こちらもそれ程頻度は高くないが聴いている。けれども、ふしぎとグールドの演奏が最初持っていた魅力、というか、心に訴えかけてくる力や吸引力が、聴くごとに衰えてゆくのを感じているのも否定は出来ないのだ。
 アファナシエフとグールドの演奏を、自分のなかで分けているものがあるのは明らからしいが、それがなんなのかは自分でもよくわかっていない。いつかそのうち、一時期よく聴き耽ったオピッツの全集などを元にしてつらつら考えてみて、このアファナシエフとグールドのブラームスを自分のなかで分けているものについて考えをまとめたい、と思う。
 一時期よく耽った、といえば、ギッシング『ヘンリ・ライクロフトの私記』やラム『エリア随筆』を枕頭の書としていた時期があって、いまも再た枕頭に侍らせているが、或る晩ふと、自分がこれまで生きてきた証しの一つとして、エッセイ集を編もう、と思い至った。既にブログやSNSで発表済みの作品も含めてのエッセイ集/ノートで、これは自分の死後に遺すことを企んでいるため、内容や文章について最後まで自分自身が責任を持つことを請け負った作物だけが掲載の栄誉に与ることとなる。そこには、もしかすると前記のアファナシエフとグールドのブラームスについての考察が書かれているかもしれない。◆

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