第0798日目 〈詩編第100篇:〈全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。〉〉 [詩編]

 詩編第100篇です。

 詩100:1-5〈全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。〉
 題詞は「賛歌。感謝のために。」

 喜びて歌い、讃えよ、主を。主は我らの創り主、主は我らの養い主。「感謝の歌をうたって主の門に進み/賛美の歌をうたって主の庭に入れ。」(詩100:4)━━「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。」(詩84:11)
 神なる主の慈しみと恵みは永遠(とこしえ)にわれらの上に続く。そう詠う詩である。虚飾なき<ほめたたえ>の詩である。
 いまはただ━━余計なことを付け加えることなくいまはただ、簡素で豊かなこの詩を唇にのぼせて、いにしえの民の感謝の歌をしみじみ味わっていよう。

 「主は恵み深く、慈しみはとこしえに/主の真実は代々に及ぶ。」(詩100:5)



 一日の仕事を終えて帰宅したとき、そこに誰かがいて待ってくれているのは、なんと良いことだろう。家族を除けばかつて自分にそういう経験はないし、いま以てないのだけれど、想像するまでもなくそれがどれだけ幸福にあふれた出来事であるかを知っている。そんなわびしさと淋しさがわたくしに或る家族の年代記を書かせているのだが、やはり実感がないため、どうしても絵空事めいてお伽噺の域を出ない部分もあることを否定できない。
 自分がどれだけ生き永らえたとしても、この小説群が完成する日が訪れることはないのかもしれない。でも、と思うのである。いつかそんな日がやって来てくれればいい、と。そんな僥倖をわたくしにもたらしてくれる人が、現れてくれればよい、と。それがあの人であればそれに優る幸い事はないけれど、忌憚なくいって、本来あるはずであった人生を、わたくしは返してほしいのだ。なんだかセンチになっているように思われるかもしれぬが、否、これは紛うことなき呪詛であり、持て余して行き場を知らぬ想念である。情念である。
 おぐゆーさんという心に住まう生きた存在があるにもかかわらずこんなことを思うのは、寝しなのわずかの一瞬間に亡き婚約者の姿が目蓋の裏に浮かぶことが近頃よくあるからだ。これはわが命の尽きんとしていることを予告しているのか? まさか! さんさんかはよくこんな迷信めいたことを真剣に弄ぶことがある。それはさておき、目蓋の裏に浮かぶ亡き婚約者は小さな、欧米の古い邸宅にあるような祈祷所で祈っている。読者諸兄にいったことがあるか覚えていないが、彼女は敬虔なプロテスタントであった。わたくしが聖書を読むようになったのもそんな謂(いわれ)からだが、彼女の祈り終わってこちらに歩いてくるときの晴れ晴れとした笑顔を、わたくしは彼女が生きていたときに見たことがあったであろうか? そうして彼女と子供たちで過ごす昼下がりの一刻。わたくしは、おぐゆーさんという想い人がありながら、亡き女性と築かれるはずだった家庭に恋い焦がれるのだ。
 でも、信じてほしい、いま生きている人こそ大事、息をしてどこかで生きているあなたこそが大切な人なのだ、と。◆

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