第0802日目 〈詩編第103篇:〈わたしの魂よ、主をたたえよ。〉2/2〉 [詩編]

 詩編第103篇(2/2)です。

 詩103:1-22〈わたしの魂よ、主をたたえよ。〉
 題詞は「ダビデの詩。」

 この詩を指してハーレイは「哀れみの詩篇」といい、「ダビデに対する神の取扱いを概観する」と述べる(『聖書ハンドブック』P341)。が、わたくしには、ダビデ個人がどうこうというのでなく、「主の目に悪と映ることを行わない限り、主は、あらゆる国、すべての民に平等である」と教える詩として読める。
 元来、━━聖書に即していえば、人間は神なる主が創造し給ふたものであった(アダムとエバ)。そうしてそこから━━表現はふさわしくないかもしれぬが、ネズミ講式に人の数は地にあふれ、イスラエルやエドムのみならぬ人間が統べる個々の共同体(諸国)を形成するに至った。
 そんな諸国の民、なかには〈国〉というものに属さず生きる者もいたかもしれぬが、そんな人々さえ神なる主が創り給ふたアダムとエバの末裔であることに違いはないのだ。ゆえに主は彼らを慈しみ、公正であらんとする。ならばなぜ主はイスラエルばかりを高く上げるのか━━いうまでもなく、彼らが自分と契約を交わした唯一の民であるからだ。
 ━━斯様な次第でわたくしには詩103がダビデ個人を扱うばかりでなく、地上のあらゆる民を対象としている風に読めるのだ。むろん、題詞に即してこれをハーレイがいうが如くダビデ個人にまつわる詩、と読むことになんら異存はない、とだけいうておく。

 「主はわたしたちを/罪に応じてあしらわれることなく/わたしたちの悪に従って報いられることもない。」(詩103:10)
 そうして、━━
 「主の慈しみは世々とこしえに/主を畏れる人の上にあり/恵みの御業は子らの子らに/主の契約を守る人/命令を心に留めて行う人に及ぶ。」(詩103:17-18)
 ━━のである。

 わたくしは昨日のブログで、この詩に対する感動の大きさを語った。これが、心に染みわたってくる、とも書いた。これがダビデ詩篇であるなら尚更だ、と。
 一日(実際には“一日”どころではないが)経ってもう少し落ち着いた心でこれを読み直してみると、自分がいちばん惹かれたのは、この詩の底辺に流れる恵み深さであったろうか、と思う。
 たとえば第3-5節だが、ここを読んで奇妙な充足を覚えたのを、いまでもはっきり覚えている。それはきっとわたくしが罪を犯しかけたせいかもしれない。救われたような気がした━━リセット、という言葉は好きでないが、まだ先に横たわってしばらく続く人生に、ほのかな光明を与えられたような気分がしたのを、あれから数年経ったいまでもわたくしは覚えている。ふしぎな力のある詩が、ここには2篇並んでいることになりますね。
 ご参考までに件の詩句を、下へ引いておくとしよう、曰く、━━

 「主はお前の罪をことごとく赦し/病をすべて癒し/命を墓から贖い出してくださる。/慈しみと憐れみの冠を授け/長らえる限り良いものに満ち足らせ/鷲のような若さを新たにしてくださる。」(詩103:3-5)

 ……前回の詩102と今回の詩103に出会え、こうまで付き合うことが出来たのが、聖書を読んで得ることの出来た収穫━━大きな収穫の一つであった、と思うておるところである。



 今日は柚子湯か……日本って美しい国ですね。◆

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