第0811日目 〈詩編第109篇:〈わたしの賛美する神よ〉&カラヤン=PO;バラキレフを聴く。〉 [詩編]

 詩編第109篇です。

 詩109:1-31〈わたしの賛美する神よ〉
 題詞は「指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。」

 私が讃美する神なる主よ、あなたに逆らう者があなたに従う私を欺き、偽り、そうして、憎む。敵にあなたの呪いが降り、私にあなたは慈しんでくれますように。「彼は呪うことを好んだのだから/呪いは彼自身に返るように。/祝福することを望まなかったのだから/祝福は彼を遠ざかるように。」(詩109:17)
「わたしの神、主よ、わたしを助けてください。/慈しみによってお救いください。/それが御手によることを、御計らいであることを/主よ、人々は知るでしょう。」(詩109:26-27)
 これまで読んできたなかにも本詩同様<呪いの詩篇>と称すものはあったが、殊に表現や執念さについて詩109は過去のそれらの上を行く、というてよい。神に逆らい私を憎む者、即ち<敵>がこんな風に呪われ、全地の諸国の民から斯様に辱められ、貶まれますように、という例は余りに微に入り細を穿っていて、その激しさには思わず引いてしまいそうになる。第14-15節を読んでいると特にそう思うのだ。
 ……まぁ、敢えて一言申し添えるなら、元日にはちょっと相応しからぬ詩篇ですよね。

 「愛しても敵意を返し/わたしが祈りをささげても/その善意に対して悪意を返します。/愛しても、憎みます。」(詩109:4-5)

 「わたしは貧しく乏しいのです。/胸の奥で心は貫かれています。/(中略)/わたしは人間の恥。/彼らはわたしを見て頭を振ります。」(詩109:22,25)



 それにしても今回の紅白で大トリを務めたのはいいけれど、なんだか釈然としないものを見終わったあとに感じましたね。「THIS IS LOVE '10メドレー」といいつつ、結局何年か前の紅白で歌った「Triangle」の感動よ、もう一度、じゃないか。おいら、間違ってる?
 カラヤンがフィルハーモニア管と1950年に録音したバラキレフの交響曲第1番とルーセルの交響曲第4番は、わたくしにとって永く手に入れられぬ<幻>の音盤であった。同オケの出資者であったインドのマハラジャの希望により録音された2曲で、後年のカラヤンならどれだけ請われてもまず手を出さなかったであろう、と思われる。
 お察しの向きもあるかもしれぬが、さんさんかは先日、偶然にも開店して間もない中古レコード店でこれらをカップリングしたCDを入手したのである(EMI 7243 5 66595 2 0 「KARAJAN EDITION」の一枚)。ルーセルはともかく、バラキレフはたぶん他の指揮者でも聴いた記憶がないので、差し引きゼロの感覚でトレイに盤を乗っけた……、
 ……おそらくはカラヤンの若さ、オケの優秀さにも起因するのだろうが、バラキレフのこの曲(Sym Nr.1)ってかっこいいな! うねるような、畳みかけるような迫力と音の塊、恥ずかしくなっちゃうようなメロディ、耳あたりのよい旋律。エンターテインメントに徹した(作曲家にその意志があったのかは知りませんよ?)、まさしく「ザ・ベスト・オブ・楽しんで聴けちゃう交響曲」(の一つ)です。演奏はカラヤン美学満載、カラヤンならではの聴いていて心地よい、ノーブルでエレガント、かつ贅沢(ゴージヤス)な音楽の時間が堪能できます。うーん、メシアンを諦めてこちらを買ってよかった!
 閑話休題。
 このバラキレフの交響曲ね、演奏会でやったらオケも聴衆もノリノリで盛りあがって、終演後の拍手と歓声は凄まじいものになるだろうね(むろん、それに値する演奏がされたらのお話です)。(聴きながら)こんなこと書いていたら、なんだか無性に本当にコンサート・ホールで聴きたくなってきたぞ。みなとみらいコンサート・シリーズでカンブルランと読響のコンビで演奏してくれないかな、そうしたら絶対聴きに行くのに……!。
 本盤、執念と根気で探した一枚であるがために感動や思い入れは一入なのですが、偶然とは雖も新年一発目のクラシック音楽には悪くないチョイスであったな、と<偶然の神様>に「♪あ~りがとう~っ! ×2」と大声で、気分よく歌いたい気分なのであります。でも、EMIが再発してしまったら複雑な気分ですね。出来ればあと5年ぐらいは、輸入盤であれ国内盤であれ現役盤の復活はなしにしてほしい(←マニア根性丸出し)。
 いや、それにしてもバラキレフっていいな! 今度、タワーレコードで他のバラキレフのCDを探してこよう、っと。◆

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