第0813日目 〈詩編第111篇:〈ハレルヤ。〉&『のだめカンタービレ』第25巻を読み終えて。〉 [詩編]

 詩編第111篇です。

 詩111:1-10〈ハレルヤ。〉
 題詞は「(アルファベットによる詩)」

 主の恵みの御業を手放しで讃える頌歌。第1節から推察すれば、会衆が集会の席で歌った作物か。
 正直なところをいえば、モーセ五書や続く史書、文学書(に分類される諸書)を一読すれば、この程度の詩は出来上がるように思う。いずれも既に他で見てきた覚えのある表現で、少し編集能力に長けた人ならこの程度のものは織りあげられよう。言い過ぎかもしれぬがかつて三文詩人であったさんさんかはそんな風に思うのであります。
 むろん、この詩の価値を貶めるつもりは毛頭ない。如何に高名な詩人とて箸にも棒にも引っかからぬ詩を物すことはあるし、どれだけ名作といわれる作品にも瑕疵はあるからだ。仮にこれがダビデやソロモンの新作であってもこうした程度の詩編が出て来ることに、わたくしは一向驚いたりはしませんな。
 でもこのようにコンパクトに、主の御業の恵み深さや憐れみ、裁きの公正さを綴った詩は口の端にのぼせて楽の調べに乗せて共に歌うことで、本来の味と輝きを放ち始めるのも事実だろう。

 「御手の業はまことの裁き/主の命令はすべて真実/世々限りなく堅固に/まことをもって、まっすぐに行われる。/主はご自分の民に贖いを送り/契約をとこしえのものと定められた。」(詩111:7-9)



 『のだめカンタービレ』の、本当の最終巻をクリスマス・イヴに買って今日まで読み耽ってきたのですが……あっさりした終幕でしたね。《魔笛》上演にこぎ着けるまでの過程を消化するのに必死で、千秋にとって(市民オペラと雖も)念願のオペラ指揮デヴューであり、のだめにとっては日本デヴューを飾る巻であり、“古武士”黒木氏にはターニャを連れての凱旋(?)帰国の顛末が語られる節目の巻であるだけに、それらがひどくあっさりと片附けられてしまい、却ってモヤモヤした気分に襲われているのだ。
 本編で物語内の時間制限もあって語りきれなかったエピソード群であっただけに、今回の肩透かし感は容易に拭いきれぬものがある。画竜点睛を欠く、とはこのことか。これならいっそ、本編だけで完全に終わらせて今回のオペラ編はない方がよかった。少なくとも、オペラ編のお話が単行本2巻で片付く容量ではない、と覚悟を決めて、全3-5巻程度にまでなる中期的な視野がほしかった、と残念に思うておる。連載中から楽しんで読んできた作品だけに、このように消化不足な完結を迎えたことが残念でならない。
 が、人気作品には必ず負の声があがるものだ。これもその一つと取っていただいて、別に構わない。でも、好きでなかったらこんな風に<敵>を作るようなこと、いわないよ?◆

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