第0827日目 〈詩編第125篇:〈主に依り頼む人は、シオンの山。〉&寝しなの読書について考える。〉 [詩編]

 詩編第125篇です。

 詩125:1-5〈主に依り頼む人は、シオンの山。〉
 題詞は「都に上る歌。」

 シオンの山、即ちエルサレムを信徒に、それを囲む地勢を神なる主に見立てる。既に幾度か述べたように、エルサレムは周囲の環境に恵まれて<自然の要害>というべき場所であった。それを主と信徒の関係に喩えたのだろう。<信徒>なる表現をここで用いるのも、捕囚解放後は聖書の神を信じるのはもはやイスラエルの民(嗣業の民)に留まらなかったであろう、と判断したゆえである。
 敵の手から守ってくれ、とはもちろんの願いであるが、一方で、主の民であろうとも神に背くような輩があれば、その者も敵同様に共同体から追い払ってほしい、と頼むのは、過去の歴史の一端を思い出させて、なにか深いものを感じさせる。彼らにとって、万人は神の前に平等なのである。

 「主よ、良い人、心のまっすぐな人を/幸せにしてください。」(詩125:4)



 昨日に引き続いて「寝しな」シリーズ第2弾。「寝しなの読書」について書く。
 寝る前に本を読む、とたびたび書いたが、読む本は気分で変わる。ベッド脇に積んである本のなかでページを開く機会がいちばんあるのは、やはりヒルティだ。その次は、そうだな、柴田肖曲『古句を観る』か。
 斯様な枕頭へ侍らせる書物に条件はない。エッセイ・小説・詩歌。それは拘(こだわ)らぬ、心地よい眠りに誘ってくれるならば。短い章節で完結するなら、それに越したことはない。
 聖書を読み始めてからは、それが多くなったかな━━「創世記」と「出エジプト記」は半分ぐらいをベッドのなかで読み耽った記憶がある。「詩編」も翌日ノートする分は同じような格好で読んでいるし、ときには新約聖書まですっ飛ばして読みたいところを読んでいる場合もある。これこそ、キリスト者でないものの気儘な聖書の読み方よ。呵々。
 いままで読んだなかで思い出に残るのはドストエフスキー『死の家の記録』と今野緒雪『マリア様がみてる』シリーズ。後者は、女子高の先生をしている友人から貸されて読み出したのだが、波長の合うものを感じ、続きの巻を借りたり買ったりして、結局<お姉様>の卒業する巻まで読了した。が、もう4冊も続きが出ているんだよな。どうしよう?
 昨日、眠れぬ夜があって、と書いたが、昨年の夏だったか、やはり不眠に悩まされていた日、午前5時頃にゴミ出ししたあと開き直る気分で梶井基次郎の「Kの昇天」を読んだが、最後まで読んだ途端に目蓋が落ちたのはなかなか出来る体験ではない、とあとから苦笑しつつ思うた。爾来、新潮文庫の梶井基次郎集(『檸檬』)は枕頭に積み上げられたる書からは外せぬ一冊となっている。みな様も不眠のときは梶井作品をお薦めします、一緒に一時的昇天を経験しましょう。
 お後が宜しいようで。◆

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