第0946日目 〈喫茶店 南蛮屋cafe〉2/2 [日々の思い・独り言]

 さあ、君。わたくしと一緒にいまはなき喫茶店を訪ねよう。━━伊勢佐木モールの一箇所でわれらは足を停める。コーヒーでも飲みたいな。そんな気分でいると、南蛮屋cafeの看板が目に入った。
 店の入り口には<本日のお奨めコーヒー>と、眞鍋さんの筆になるちょっと読ませる金言・箴言、人生訓の書かれた黒板がある。それを横に眺めて、仄暗くて細長い店内へ足を踏み入れよう。最初に目を奪われるのは、突き当たりにあって、それぞれの季節の植物がアレンジして配された坪庭だ。かぶりつきの席はいつでも誰かが既にいる、今日も同じだ。自然光が窓際の席に気持ちよさげな日溜まりを作っている。
 視線を手前に戻そう。右手に例の狭くて急な階段とカウンターがある。カウンターのなかからミルを轢く音が聞こえるね。妙に落ち着く音でないか。いつしか馨(かぐわ)しい匂いが鼻腔をつく。もう少し耳を澄ますと、粒が立つような繊細な音がしたかもしれない。ペーパーのなかのコーヒー粉にお湯が注がれ、蒸らされている間にプツプツいう、そんな音が聞こえただろう。
 見たところ、1階にある丸テーブルはいずれも塞がっているようだ。全部で5卓ばかりあるのだが、居心地がよいためつい長居したりしてしまうのだ。かく言うわたくしもその一人だから、文句はいうまい。さて、ぼんやり突っ立ていると、━━
 タバコは吸いますか? カウンターのなかからポニーテールの少女が、どんぐり眼で仰視しながら、そう訊ねてくる。君は、確かタバコを吸うね? すかさず少女はわれらを2階へ誘導した。
 足許に気を付けてね。そう注意を促して、先に立って階段を昇る。カウンターの向かいに奥行きの僅かな、腰高の板が渡してあっただろう? よく見ていなかった、と君はいった。気にするなよ、とわたくしは答える。以前はね、そこが立ち飲み用になっていてそこで飲むと、一杯のコーヒーが半額であったか10%引きであったか忘れたが、いくらか安く飲めたんだ。就職する前はずいぶんと、このサービスのお世話になったな。
 慎重な足取りで階段を昇ると、1階よりもずっと明るい2階席に到着する。かつてはここが禁煙席であったと記憶するが、改装後はこの階が喫煙席になった。
 おや、と怪訝な表情で君は、昇りきった先から僅かなスペースをはさんで、再び階下へ伸びる同じく急な階段があるのに気附き、見下ろした。このカフェには階段がもう一つあるのだ、別に悪いことじゃぁ、ない。スタッフにはこの奥の階段を上り下りする方が便利だそうだ、ごく稀に客とお見合い状態になるのはいうまでもない。それからね、いま君が見下ろしている階段の上から三段目(二段目であったかもしれない)が、スタッフをときどき物忘れさせる魔物が潜んでいる段だ。
 さあ、坐ろう。幸い、誰もいないようだ。いま昇ってきた階段を回りこむようにして、5卓ある内の、伊勢佐木モールに面した丸テーブルへわれらは向かう。君は窓から離れた位置に、ぼくはモール側に腰をおろした。ぼくはここの、いちばん伊勢佐木モール側に面したテーブルが好きだった。作り付けの椅子に寄りかかって肘を背に乗せて、植物の飾られた窓からモールを眺め下ろすのが好きだったんだ。いまも、そうしている。
 やがてさっきの、ポニーテールにした少女が2階へやって来た。階段をあがった場所に置かれた棚の前で、一旦足を停める。そこでお冷やを用意すると盆に載せて、いらっしゃいませ、とコップを置いた。君は卓上のメニューとにらめっこしている。コーヒーの名前と特徴が細筆で書かれた、黒表紙で縦長二つ折りのメニューだ。ぼくはもう頼むものは決まっている。やがて君は、モカ・マタリとシナモン・トーストを、ぼくは雲上のマンデリンとスコーンを注文した。君は手に持ったメニューを、アールデコ調の電器スタンドの脇のメニュー立てへ戻した。
 くしゃくしゃになったタバコの箱を、君は尻ポケットから出した。マッチを擦って火を点けて、ゆっくり吸いこみ、天井へ向けて細く煙を吐き出す。紫苑の煙がゆらゆらと気怠そうに立ちのぼってゆく。そうしてから君は、ぐるり、と2階を眺め渡した。
 奥に、小上がり風の部屋があるのを見附けた君がぼくの方に向いて、訊ねた。あそこは? 大きな楕円形のテーブルがある半独立した部屋で、人のいないことが多いから静かでね、天井のスピーカーから小さなヴォリュームで流れるジャズがはっきりと聞こえる、ここへくると大抵あの部屋で本を読んだり書き物をしたりするんだ、と答えた。そう、この部屋にいると、━━
 頬杖をついた君は、壁に掛かった絵画を眺めている。油絵だ。作者の名前は知らない。どれもパリかどこかの街角を描いた絵で、それ程明るい色彩の作品ではなかった。でも、じっと見ているとちょっと飾りたくなるような、味わいのある作品でもあった。
 ……少女はまず、君の注文を持ってきた。そのとき何気なく、今日眞鍋さんは? と訊いた。いる、という返事だった。そうしたら今度、ぼくの頼んだコーヒーとスコーンを運んできたのは眞鍋さんだった。いや、催促したようで申し訳ない。いいえ、と彼女はいった。カバさんが来ている、って聞いたものだから。今日はお連れの方がいらっしゃるんですね。いつも一人だから、たまにはと思って、今日寄りました。或ることがきっかけで、こんな風にぼくらは喋るようになった。さっきの半独立した奥の部屋、あそこにいると、よく眞鍋さんがお喋りに来る。ごゆっくり。伝票を置いて、彼女は去った。
 ふーん、と君は感心したような声を洩らした。美味いな。それに、安いね。三上さんや眞鍋さんがいた当時、コーヒーは一杯450円がメインで550円以上のものはあまりなかった。浅煎り、中煎り、深煎り、いずれも。ヴェトナム・コーヒーもそれぐらいの値段でなかったかな。紅茶類も幾つかあった。現実には改装後はコーヒー一本やりで、値段も劇的に上がったが。
 そうそう、南蛮屋cafeには、アイスクリームにコーヒーをかけたコーヒーアイスやコーヒーゼリーもあった。前述のスコーンやトースト、どれも絶品だった。……特にスコーンは大好物で、イギリスで食べたようなスコーンとは未だ国内に於いてお目にかかったことがなかっただけに、このスコーンにはすっかり惚れた。一口ごとになくなってゆくのを惜しみつつ、お腹の中へ収めていったよ。
 夕暮れ時になって、君は携帯電話で呼び出され、自分の代金を置くと慌ただしくその場を去った。暮れなずむ伊勢佐木モールを見つつ、そろそろぼくも腰をあげようかな、と考えていた矢先であった。他に誰も客がいない2階へ、さりとてお代わりを注文したわけでもないのに、眞鍋さんが姿を現した。こちらへ躊躇いもなく歩んでくる。手にした盆には湯気の立っているコーヒー・カップが二客。彼女はぼくのいるテーブルと隣のテーブルにそれぞれコーヒーを置いた。隣へ腰をおろしてスニーカーを脱ぐと、ジーンズをはいた足を胸に引き寄せて体育館座りになり、エプロンの下から村上春樹の『海辺のカフカ』下巻を取り出して、おもむろに読み始めた。そんな光景を、いつか他の場所で見た。
 ━━現実に戻れば、やがて彼らは南蛮屋から姿を消し、改装され、店名は南蛮茶房と改めた。それからすっかり足が遠退いたわたくしに、これより後の南蛮屋cafe、もとい、南蛮茶房を語る資格なぞあるまい。そろそろ筆を擱くべきだ、と脳内編集者が警告を発し続けている。了解。
 顧みれば、彼らが切り回していた時代がいちばん好きだ。時間がゆっくりとたゆたい、かつ伸びたり縮んだりしているような、そんなふしぎな店だった。敢えて申すなら、プルースト『失われた時を求めて』の喫茶店版……という表現は如何?
 ここで働いていた人たちは、いま、どこでなにをしているのだろう? ああ、もう一度彼らの淹れてくれたコーヒーが飲みたい。彼らの淹れてくれたコーヒーを飲める人が心底羨ましい。

 わたくしのコーヒーの好みはすっかりこの店で形成されたようなものである。少しでもあのときの味に近附きたくて、モールの入り口にある南蛮屋でコーヒー豆を買って自分で淹れたり、あちこち喫茶店を廻ったりしているが、なかなか南蛮屋cafeで飲んだようなコーヒーには出会えないでいる。
 記憶は美化されがちだが、それでも真実の一欠片は常に美化されることも劣化することもなく生き続ける。わたくしにとってそれは南蛮屋cafeで飲んだあのコーヒーの味。あの味を求めて、遠近の喫茶店を廻り、自分で淹れる。たぶんそれは一生続く探求の旅であり続けるだろう。そんなに大袈裟ではないにしても。◆

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