第0951日目 〈雅歌第3章:〈夜ごと、ふしどに恋い慕う人を求めても〉&『涼宮ハルヒ』を読み直しました。〉 [雅歌]
雅歌第3章です。
雅3:1-11〈夜ごと、ふしどに恋い慕う人を求めても〉
(おとめの歌)
1:夜ごと、ふしどに恋い慕う人を求めても
求めても、見つかりません。
2:起き出して町をめぐり
通りや広場をめぐって
恋い慕う人を求めよう。
求めても、あの人は見つかりません。
3:わたしが町をめぐる夜警に見つかりました。
「わたしの恋い慕う人を見かけましたか。」
4:彼らに別れるとすぐに
恋い慕う人が見つかりました。
つかまえました、もう離しません。
母の家に
わたしを産んだ母の部屋にお連れします。
5:エルサレムのおとめたちよ
野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください。
愛がそれを望むまでは
愛を呼びさまさないと。
合唱 一
6:荒れ野から上ってくるおとめは誰か。
煙の柱が近づいて来るかのよう。
それは隊商のもたらすさまざまな香料
ミルラや乳香をたく煙。
合唱 二
7:見よ、ソロモンの輿を。
輿をになう六十人の勇士、イスラエルの精鋭。
8:すべて、剣に秀でた戦士。
夜襲に備えて、腰に剣。
9-10:ソロモン王は天蓋を作らせた。
レバノン杉を柱とし、銀の台座に金の玉座。
エルサレムのおとめたちが愛をこめて
紫の布を張りめぐらした。
11:いでよ、シオンのおとめたちよ
ソロモン王を仰ぎ見よ。
その冠を見よ
王の婚礼の日に、喜びの日に
母君がいただかせた冠を。
ついに処女子は恋い慕う若者を求めて夜の街を彷徨う。そうして当然のことながら夜警に出喰わす……が、彼らも若者の所在は知らない。意気消沈していたところへ、当の若者が夜闇のなかから姿を現し、処女子は歓喜する。処女子の想いの強さを、まずは素直に現した章といえましょう。第2章にも出てきましたけれど、「愛がそれを望むまでは/愛を呼びさまさない」でほしい、とは美しい言葉ですね。
<合唱 一>に「荒れ野から上ってくるおとめは誰か。/煙の柱が近づいて来るかのよう。」とあります。これは、出13:21でモーセ率いるイスラエルを約束の地へ連れてゆくにあたって、主なる神が、昼は雲の柱、夜は火の柱となって先導した、という描写を思い出させます。これを念頭に置いた表現でしょうか。ただ、それを連想させるにじゅうぶんである、と、わたくしは思います。
初めて読んだときから<合唱 二>はなにを歌おうとしているのだろう、と疑問でした。が、「雅歌」が恋しあって結ばれた男女の結婚を寿ぐ作品であるならば、ソロモン王の行幸を歌うこの部分は、彼らの結婚式を祝う人々の行列を指すのではないか。――そんな風に思われてなりません。
GWに観たなかでは、WOWOWで連続放送された『涼宮ハルヒ』が、やっぱりいちばん面白かった。こうして全作を改めて通しで放送されると、第2シーズン(「エンドレスエイト」)はまったく観ていなかったことが判明。どこまで続くのか、いつまで続くのか……とこちらもだんだんエンドレス状態になってきた頃にやっとケリがつく。原作にはなかったしつこさでした。
全作連続放送を機会に、3年ぶりに原作を読み直した。来週には最終巻も発売される(予約済み)、そのための復習を兼ねた作業であるのは断るまでもない。どの巻も甲乙つけがたく、そんなのは徒労でしかないような気もするが、敢えていうなら――『暴走』に書き下ろしで収録された「雪山症候群」か。……いや、それとも……うぅむ、長編から『陰謀』と『憤慨』かなぁ。悩んだ末に、すべての巻がお気に入り、という答えは如何だろうか?
でも、コメディとしてもSFとしても良くできた作品であり、あれだけのブーム(?)を起こしたのも納得の作品であるのは事実です。さて、最終巻の発売が待ち遠しいな。◆
雅3:1-11〈夜ごと、ふしどに恋い慕う人を求めても〉
(おとめの歌)
1:夜ごと、ふしどに恋い慕う人を求めても
求めても、見つかりません。
2:起き出して町をめぐり
通りや広場をめぐって
恋い慕う人を求めよう。
求めても、あの人は見つかりません。
3:わたしが町をめぐる夜警に見つかりました。
「わたしの恋い慕う人を見かけましたか。」
4:彼らに別れるとすぐに
恋い慕う人が見つかりました。
つかまえました、もう離しません。
母の家に
わたしを産んだ母の部屋にお連れします。
5:エルサレムのおとめたちよ
野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください。
愛がそれを望むまでは
愛を呼びさまさないと。
合唱 一
6:荒れ野から上ってくるおとめは誰か。
煙の柱が近づいて来るかのよう。
それは隊商のもたらすさまざまな香料
ミルラや乳香をたく煙。
合唱 二
7:見よ、ソロモンの輿を。
輿をになう六十人の勇士、イスラエルの精鋭。
8:すべて、剣に秀でた戦士。
夜襲に備えて、腰に剣。
9-10:ソロモン王は天蓋を作らせた。
レバノン杉を柱とし、銀の台座に金の玉座。
エルサレムのおとめたちが愛をこめて
紫の布を張りめぐらした。
11:いでよ、シオンのおとめたちよ
ソロモン王を仰ぎ見よ。
その冠を見よ
王の婚礼の日に、喜びの日に
母君がいただかせた冠を。
ついに処女子は恋い慕う若者を求めて夜の街を彷徨う。そうして当然のことながら夜警に出喰わす……が、彼らも若者の所在は知らない。意気消沈していたところへ、当の若者が夜闇のなかから姿を現し、処女子は歓喜する。処女子の想いの強さを、まずは素直に現した章といえましょう。第2章にも出てきましたけれど、「愛がそれを望むまでは/愛を呼びさまさない」でほしい、とは美しい言葉ですね。
<合唱 一>に「荒れ野から上ってくるおとめは誰か。/煙の柱が近づいて来るかのよう。」とあります。これは、出13:21でモーセ率いるイスラエルを約束の地へ連れてゆくにあたって、主なる神が、昼は雲の柱、夜は火の柱となって先導した、という描写を思い出させます。これを念頭に置いた表現でしょうか。ただ、それを連想させるにじゅうぶんである、と、わたくしは思います。
初めて読んだときから<合唱 二>はなにを歌おうとしているのだろう、と疑問でした。が、「雅歌」が恋しあって結ばれた男女の結婚を寿ぐ作品であるならば、ソロモン王の行幸を歌うこの部分は、彼らの結婚式を祝う人々の行列を指すのではないか。――そんな風に思われてなりません。
GWに観たなかでは、WOWOWで連続放送された『涼宮ハルヒ』が、やっぱりいちばん面白かった。こうして全作を改めて通しで放送されると、第2シーズン(「エンドレスエイト」)はまったく観ていなかったことが判明。どこまで続くのか、いつまで続くのか……とこちらもだんだんエンドレス状態になってきた頃にやっとケリがつく。原作にはなかったしつこさでした。
全作連続放送を機会に、3年ぶりに原作を読み直した。来週には最終巻も発売される(予約済み)、そのための復習を兼ねた作業であるのは断るまでもない。どの巻も甲乙つけがたく、そんなのは徒労でしかないような気もするが、敢えていうなら――『暴走』に書き下ろしで収録された「雪山症候群」か。……いや、それとも……うぅむ、長編から『陰謀』と『憤慨』かなぁ。悩んだ末に、すべての巻がお気に入り、という答えは如何だろうか?
でも、コメディとしてもSFとしても良くできた作品であり、あれだけのブーム(?)を起こしたのも納得の作品であるのは事実です。さて、最終巻の発売が待ち遠しいな。◆
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