第0995日目 〈イザヤ書第14章:〈イスラエルの回復〉、〈バビロンの滅亡〉&〈アッシリアの軛〉他withショパンの夜想曲を数年ぶりに聴き直しました。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第14章です。

 イザ14:1-2〈イスラエルの回復〉
 主はヤコブを憐れみ、イスラエルの土地を再び与える。ヤコブの家に結びついたヤコブの民もそこへ加わる。かつて彼らを捕囚とした者、虐げた者が却って彼らの捕虜となり虐げられる存在となる。彼らを奴隷とした者が却って彼らの奴隷と成り下がる。

 イザ14:3-23〈バビロンの滅亡〉
 主がヤコブを解放する日が、その上に課された苦しみと労役から解放する日が、来る。「虐げる者は滅び/その抑圧は終わった」(イザ14:4)のだ。その日にヤコブよ、高らかに、自分たちを苦しめた者への嘲りの歌をうたえ。
 驕れるバビロンを主は打つ。かつてバビロンは破竹の勢いで諸国を統べた。が、いまや征服者の影は除かれ、諸国民は歓喜の声を轟かす。陰府をさまよう亡霊も、それを知れば途端に騒ぎ始めよう。就中バビロンの剣に討たれて倒れた諸国の王は、陰府にいる自分たちの前にやって来たバビロンを嘲笑する。
 神よりも高きへ昇らんとしたバビロン。いまやその栄華は天から堕ち、墓穴の底にいる。バビロン、お前を知る者は、お前をまじまじと見、呆れたようにいうだろう、これが昔は栄華を誇り世界を荒れ野とし、連れ来たった捕囚を解放することもなかったバビロンか、と。
 滅ぶバビロンの王が敬われて埋葬されることはない。「お前は、自分の国を滅ぼし/自分の民を殺したので/彼ら(※)と共には葬られない。/悪を行う者たちの末は/永遠に、その名を呼ばれることはない。/彼らの先祖の咎のゆえに/その子孫のために、屠り場を備えよ。/再び、彼らが立ち上がって、世界を奪い/地の面を町々で満たすことがないように。/
 『わたしは、彼らに立ち向かう』と/万軍の主は言われる。/『バビロンから、その名も、名残も/子孫も末裔も、すべて断ち滅ぼす』と/主は言われる。/また、『都を山あらしの住みか、沼地とし/滅びの箒で、掃き清める』と/万軍の主は言われる。」(イザ14:20-23)
 【さんさんか註:「彼ら」とは、礼を尽くして葬られた諸国の王(イザ14:18)を指す。】

 イザ14:24-27〈アッシリアの軛〉
 主はいう、やがてアッシリアは、わたしの領土で、衰えて滅びる。アッシリアの軛がわが民から除かれ、肩から重荷が除かれる、とも。
 万軍の主が定めたことは誰も妨げることができず、伸ばされた御手を引き戻すことも誰にもできない。「これこそ、全世界に対して定められた計画/すべての国に伸ばされた御手の業である。」(イザ14:26)

 イザ14:28-32〈ペリシテに対する警告〉
 ━━ユダ王アハズ崩御の年にされた託宣。
 ユダの属州ペリシテの民よ、アハズの死をいたずらに喜ぶな。心に留めておけ、北から砂煙をあげて迫る者がいることを。

 前章から始まった諸国への託宣を一渡り読み終えたいま、この章を顧みて思うのは、主の預言、託宣は殊バビロンに関してその凄惨さ、怒りの強さが極まっているように感じます。北王国を滅ぼすアッシリアよりも、やはり御座が置かれ、神殿が築かれたエルサレムを擁す南王国へ寄せる慈しみは深い、ゆえにそれを滅ぼすバビロンへの託宣が自ずと激しさを増す、ということか。そうだろう、と思う。むしろ主の信仰に立ち帰るのはユダの方であった。主の信仰に従い主の目に良いと映ることを実践し、国を守った王も、ユダの方にずっと多くいた。そう考えると、かれらの神にとって北王国とはいったい如何程の存在だったのだろう、と悩んでしまうのですね……。
 正直、諸国への託宣を読んでいると、なんのこっちゃいな、と字句を睨んで黙りこくってしまうことが多かった。本章の場合、バビロンの部分はまだしも、アッシリアとペリシテについてはクウェスチョン・マークが頭のなかで乱舞したことでありますよ。「バビロンのあとに、なぜアッシリア? 順番が逆じゃないか?」と、そんな初歩的な躓きを経験したのです。が、そんな疑問はしばらく経って、解決した。非常に単純な解答であった。━━<時間の錯綜>。それを念頭に置けば、解決する類の疑問だったのだ。託宣はわれらの知る時系列に従ってされているわけではない。「イザヤ書」はおそらく、この預言者が見たままを敢えて整理することもしないで、馬鹿正直に記録したのだろう。いわゆるトリップ状態に近い状態で見る託宣/幻に整然たる順序があるわけではないのだ。もっとも、そういう意味では、主もけっこう自由気ままでありますね。
 ただ一点、よくわからなかったのは、ペリシテの箇所。要するに、ぬか喜びはするなよ、ということである。が、第30節なんて悩まされること頻りである、第32節も然りだけれど(以下に当該箇所を引用する)。ノートの性質上、加えて自分の性格上、こんなあたりに誠実に向き合おうとしているのです。正直に申して、溜め息が尽きることはありません。嗚呼!

 イザ14:30「乏しい者も、糧を得/貧しい者も、安らかに伏す。/『わたしは、餓えによってお前の根を断ち/お前の残りの者を殺す。』」
 イザ14:32「異国の使者たちに、何と答えるべきか。/『シオンの基を据えられたのは主である。/苦しむ民は、そこに身を寄せる』と答えよ。」
 ……まぁ、近頃ここを読み返して、なんとなくそういうことかなぁ……と倩思うこと度々なのですがね。



 ずっと前にショパンのCDを一枚ずつ大切に買っていた時代のことを告白し、少し前に書架の整理を企て実行したことをお伝えしました。今日の章をパソコンに打ち直しながら聴いていたのは、昔一枚ずつ買って殆ど覚えるぐらいに聴き倒したイディル・ビレットのアルバムで、夜想曲全集第1巻(NAXOS 8.550356)です。片附けていたら奥から出てきたので、棚の前面に並べ直して改めて聴き直しているのです。
 ショパンのCDというとルービンシュタインやらアシュケナージやらフランソワやらを推す人が多く、実際自分もお目にかかってきましたが、わたくしには貧しかった時代になにかを託すような想いで聴き耽ったビレットのショパンがいちばん馴染み、安心し、名演と思い、いつまでも手許に置いておきたいショパンであるのだ。
 彼女の弾くショパンには落ち着きと煌めきと温もりと愛おしさがある。そうして、一点の揺らぎのない、自信と誇りに満ちた演奏である。こんなショパンを最初に聴いたら、どれだけ名奏者の者を聴いたとして一時的な感動は得られても、いつまでも色褪せることのない想いを与えてくれるものではない。否、与えられはしないだろう、と勝手に信じている。
 これが、わたくしの推すショパン、永遠のスタンダードにして無二のショパンであります。◆

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