第1003日目 〈イザヤ書第22章:〈いやし難いエルサレムの罪〉&〈シェブナの罷免〉with07月11日への頌歌〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第22章です。

 イザ22:1-14〈いやし難いエルサレムの罪〉
 (これは王都に降伏を迫ったアッシリアの王センナケリブの軍を、助けを求めて叫んだヒゼキヤ王らに応えた主が一夜のうちに撃破した後、<幻の谷>即ちユダとエルサレムへ告げた言葉である。ex;王下18:13-19:37,代下32:1-22)
 浮かれ騒ぐな、ユダよ、エルサレムよ、アッシリアは戦って倒れたのではない。わたしの定めた滅びの日が、ほんの少し先延ばしにされたにすぎぬ。アッシリアが倒れても、まだエラムやモアブが控えてユダの防備を剥ぎ取ろうとしている。
 センナケリブの攻撃に備えて、お前たちは都の防壁を修繕し、飲み水を確保した。が、お前たちは遠い昔にこの都を造ったわたしを見ようとしなかった。センナケリブの軍が倒れたあともお前たちは浮かれ騒いでいる。挙げ句に、飲めや歌えやどうせ明日は死ぬ身だから、とは、いったい何事か。
 わたしはイザヤにこう伝える━━「お前たちが死ぬまで/この罪は決して赦されることがない」(イザ22:14)と。

 イザ22:15-25〈シェブナの罷免〉
 主はイザヤを、書記官シェブナの許に行かせ、斯くいわせた。シェブナはヒゼキヤ朝の宮廷を実質的に支配していた者である。
 ━━この場所に、自分のための墓を造るとは何事か。自惚れるな。王に恥をかかせたお前から職務を取りあげ、広大な地へ追放してそこで死なせる。
 シェブナの後任はヒルキヤ(ヨシヤ朝の祭司ヒルキヤとは別人)の子エルヤキムをあてる。かれはエルサレムの住民とユダの家の父となる。かれは鍵、かれは要、確かなところへ打ちこまれる。「彼は父の家にとって栄光の座に着く。/彼の父の家の栄光はすべて、彼の上に掛けられる。」(イザ22:23-24)
 だが、と主はいう。だがその日には、「確かなところに打ち込まれていたかなめは抜け落ち、それに掛けられていた重荷は、壊され、落ち、断たれる。」(イザ22:25)

 自惚れるな、なる主の言葉はノートにも小さな影響を残したようです。なるべく簡潔に、渇いた調子で。どれだけ意図に添った表現ができたか、読者諸兄のご判断にゆだねたい。
 「癒し難いエルサレムの罪」、それは「決して赦されない」。この一言に、これまでユダが主に対して犯し続けてきた背反が、どれだけ根深く許されがたいものであったか、が集約されている。そう、滅びの日は単に先延ばしにされたにすぎないのです……。
 この章を読むに際して、()内に記した箇所をあらかじめ読んでおくと通り一遍でない理解が得られると思います。
 なお、シェブナはラブ・シャケ率いるアッシリアの軍がエルサレムへ迫ったとき、エルヤキムといっしょに和平交渉を計ろうとした人物。シェブナが自分の墓を造ろうとした(或いは、造った)場所は、高貴なユダヤ人しか墓を造るのを許されていなかった「高い所」、「岩をえぐるような場所」(イザ22:16)であった。これはシェブナが外国人であったことを示す根拠ともなっております。
 〈シェブナの罷免〉は同時に<エルヤキム礼賛>ともなっているが、それに終わらず最後はしっかりと(ユダ滅亡という)楔が打ちこまれているあたり、さすが、と呟いてしましました。



 昨日は父の命日でした。時間の過ぎるのが異様に早く感じます。まだあれはつい先週のことのようなのです……。あの夜からいったいわたくしは、何度あの夜の夢を見てうなされて悲鳴をあげただろう。現在(いま)の自分のいる場所が現実と思えぬことさえ、ときどきあるのです。果たしてなにが、わたくしにとって現実であるのか……?
 そんな昨日から、わたくしは新しい職場で働き始めました。某外資系物流企業で殺されかけたトラウマが、時折頭をもたげてわたくしを苛(さいな)みますが、ここはどうやらちゃんとした会社のようだ。周囲の人々も良い。どうかこの印象が最後まで裏切られたりしませんように、どうか幻想であったりしませんように。……わたくしを見守ってください、そうして、導いてください。◆

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。