第1011日目 〈イザヤ書第29章:〈エルサレムの攻城と救い〉、〈酔いしれる指導者〉&〈イスラエルの回復〉withストラヴィンスキー《独奏ヴィオラのための悲歌》を聴きました。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第29章です。

 イザ29:1-8〈エルサレムの攻城と救い〉
 アリエル(エルサレム)は平和ボケしている。神殿の祭儀は無意味に数を増す。わたしはもうアリエルを顧みない。わたしはエルサレムを苦しめる。アリエルには嘆きと苦しみが臨む。わたしはダビデの町を包囲して城壁を築く。
 アリエルよ、お前は倒れて地の下から語りかけるが、その言葉は塵にくぐもってよく聞こえない。とはいえ、お前に群がる敵は、瞬時に駆逐される。なぜならば、わたしが再びお前を顧みるからだ。敵にとってエルサレム攻撃は、夜、寝ている間に見た夢のようなもの。

 イザ29:9-16〈酔いしれる指導者〉
 もはや救済の途は絶たれた。かたくなになるばかりの国の王よ、民よ、ためらい、立ちすくみ、目をふさぎ、見えなくなれ。「主はお前たちに深い眠りの霊を注ぎ/お前たちの目である預言者の目を閉ざし/頭である先見者を覆われた。/それゆえすべての幻は、お前たちにとって封じられた書物の中の言葉のようだ。」(イザ29:10-11)
 主は知っている、ユダの民が主に寄せる信頼と敬愛は偽りである、と。主から遠く離れた心のなかで謀り事をしていることも。なぜかというと、人間が主なる神を敬うのは既にして一つのポーズにすぎないからだ。
 斯くして主は、こういう。曰く、━━
 「それゆえ、見よ、わたしは再び/驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。/賢者の知恵は滅び/聡明な者の分別は隠される。」(イザ29:14)

 イザ29:17-24〈イスラエルの回復〉
 が、しばらくの時間(とき)が流れれば、荒廃したレバノンは再び緑の園となり人はふさがれていた目と耳が開かれ、苦しみと貧しさから救われて、聖なる主のゆえに喜び祝い、そうして、躍る。悪の道を歩んで民を虐げ、災いを与えた者らはことごとく滅びる。
 「それゆえ、アブラハムを贖われた主は/ヤコブの家に向かって、こう言われる。/『もはや、ヤコブは恥を受けることはない。/もはや顔が青ざめることもない。』/彼はその子らと共に/民の内にわが手の業を見てわが名を聖とする。/彼らはヤコブの聖なる者を聖とし/イスラエルの神を畏るべきものとする。/心の迷ったものも知ることを得/つぶやく者も正しく語ることを学ぶ。」(イザ29:22-24)

 アリエルは「神の祭壇の香炉」という意味で、ここではエルサレムを指すイザヤ独特の表現であります。おそらく、エルサレムにある焼き尽くす献げ物を燃やすための炉が、巡り巡って王都を指す表現となったのでありましょう。
 これまでユダを救済しようとして来たイザヤでしたが、既にイザ6:9-10で預言されていたようにユダはひたすらかたくなになって、救いの言葉に耳を傾けることも、救いの手段を真面目に検討することもありませんでした。ただ頑迷預言だけが現実になったことを憤り、幻滅と無力に打ちひしがれたイザヤの言葉が、イザ29:9-16〈酔いしれる指導者〉の全文です(ここではキモとなる部分だけを引用しました)。
 が、それだけに救済が顧みられて実現したときの喜びは、まるではじけそうな勢いに満ちています。「喜び」や「讃歌」といったこれまで比較的容易に使ってきた言葉では、肝心な所が抜け落ちてしまいそうな気がしてなりません。



 ストラヴィンスキーの《独奏ヴィオラのための悲歌》は魂を抉られるような作品ですね。正直、この作曲家の作品に、斯くも痛ましい作品があったのか、と驚いています……。わたくしが聴いたのは、NAXOSの「ロバート・クラフト・コレクション/ストラヴィンスキー作品集第12集」(8.557532)であります。独奏はリチャード・オニール。これは絶品だな。◆

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