第1014日目 〈イザヤ書第32章:〈正しい王の支配〉、〈憂いなき女たち〉&〈神の霊の働き〉withザ・プロミス~The Lost Story.〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第32章です。

 イザ32:1-8〈正しい王の支配〉
 一人の王が正義によって国を統治し、高官たちが公平を以て国を支配する。かれらは弱き者、貧しき者にとって、避け所となり逃れ場となる。「見る者の目は曇らされず/聞く者の耳は良く聞き分ける。/軽率な心も知ることを学び/どもる舌も速やかに語る。」(イザ32:3-4)
 もう人品が偽られることもない。愚か者は決して貴人ではなく愚か者のままだし、ならず者は決して貴人ではなくならず者のままである。かれらは心のなかで良からぬことを企み、正義を偽るが、真に貴い人は貴いことを考え、貴いことを擁護する。

 イザ32:9-14〈憂いなき女たち〉
 日々を憂いなく、安んじて生きる女たちよ、この日々も一年後には変転する。粗布をまとって荒れ果てたぶどう畑を嘆け。
 「美しい畑、実り豊かであったぶどうの木のために/茨やいらくさに覆われたわが民の畑のために/喜びの家、陽気な町のために。」(イザ32:12-13)
 やがて都から人の気配はなくなり、代わって家畜が安んじて草を食(は)むようになるだろう。

 イザ32:15-20〈神の霊の働き〉
 ━━が、遂にわれらの上に神の霊がいと高い所から働きかけるときが来る。荒れ野は園となり、園は森となる。そこには公平が宿り、正義が宿る。
 「正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である。」(イザ32:17)
 他の地がどのような天災人災に見舞われたとしても、主の民は心を安らかにしたまま休息の場所に住まう。すべての水のそばで作物を育て、家畜を放つ主の民の、なんとしあわせなことだろうか。

 主なる神の正義とはなにか? それは平和と信頼である。補足すれば<わたし>と<あなた>のギヴ・アンド・テイクの関係でもある。言い換えれば、われらキリスト者ではない日本人にも有名な言葉、即ち「求めよ、さらば与えられん」という表現に結びつく。
 むろん、<正義>とは立ち位置を変えれば如何様にも変化しますから突っこんだ話はなしにしますが、少なくとも旧約聖書の神にとっての<正義>とは、神と民の間に結ばれて実現する平和と信頼に他ならない。この場合、根本には<契約>という行為があるのは言わずもがなでありましょう。
 いずれにせよ、本章は流し読みするだけでなく、立ち止まってじっくりと考えながら読んでみるのがいちばん良い方法であると思います。
 あと2週間足らずで第一イザヤは終わりますが、第二イザヤへ入る前に1日だけ、本ブログはお休みします。「ウォーキング・トーク、シッティング・トーク」という形で前言撤回する可能性は否定できませんが……。



 ちょこちょこといろいろ書いていますが、今年中に、かつてここで(発作的に)連載(!)した短編『人生は斯くの如し(ヘンリー・キングの詩より)』に手を加え、きちんとした意味で完成させることを誓います。
 遅ればせながらブルース・スプリングスティーンの「新作」アルバム、『ザ・プロミス~The Lost Sessions』(SICP2977-8)を聴きながら、不肖さんさんかが斯く申しあげる次第であります。◆

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