第1020日目 〈イザヤ書第38章:〈ヒゼキヤの病気〉withS.キング『夕暮れをすぎて』を読了しました。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第38章です。

 イザ38:1-22〈ヒゼキヤの病気〉
 ユダの王ヒゼキヤは死病を患った。イザヤを通じて主から死の宣告をされ、家族に遺言するよう奨められたヒゼキヤは、壁に向かってしとどに涙した。そうして、自分が主の前に善き者であったことを思い出してほしい、と訴えた。
 すると、主の言葉がイザヤに臨み、ヒゼキヤの寿命を15年延ばす、と告げた。「ここに主によって与えられたしるしがあります。それによって、主は約束なさったことを実現されることがわかります。/『見よ、わたしは日時計の影、太陽によってアハズの日時計に落ちた影を、十度後戻りさせる。』」(イザ38:7-8)
 病癒えた王が主にささげた感謝の歌(ミクタム)がある。内容は、━━わが命は人生の途中で途絶えるという、残る齢は陰府へゆだねなくてはならないのか。徐々に弱まり昼も夜もわが息の根を主は止めようとする。責め苛まされる自分の保証人となってください、主よ。……ああ、あなたは私に思いを寄せ、滅びの穴へ陥らないようにしてくださった。われらはこの世に生きる限りあなたの神殿で、あなたへささげる音楽を共に奏でることでしょう。

 「主が近くにいてくだされば、人々は生き続けます。/わたしの霊も絶えず生かしてください。/わたしを健やかにし、わたしを生かしてください。」(イザ38:16)

 「命ある者、命ある者のみが/今日の、わたしのようにあなたに感謝し/父は子にあなたのまことを知らせるのです。」(イザ38:19)

 並行箇所は王下20:1-11ですが、そちらにミクタブは記載さていません。
 第21-22節に干しイチジクの挿話があります。本章では最後に位置していますが、これはどう考えてみてもおかしな配置です。並行箇所ではどうなっているか、と申しますと、本章でいえば第6節と第7節の間に位置している。これが本来でしょう。ちなみに件の箇所はこんな風になっております、━━
 死病を患った王のためにイザヤが干しイチジクを患部に付けると、王の病は回復した。
 ヒゼキヤ王は預言者に訊ねました、私が主の神殿に上がれるしるしはなにか、と。
 イザヤはそれを承け、王よあなたが神殿に上がれるというしるしはこれです、と応えた。
云々。なぜ本章ではこんな配置がされたのか疑問ですが、編集ミスでありましょうか。
 ミクタブというのがどんな意味なのか不明ですが、これのあるなしでヒゼキヤ王の信心や王に対する印象なども少しながら変わってくるように思います。ミクタブは前半が嘆き、後半が希望と調子が転じますが、それをつなぐ役割を果たしているのが引用した第16節であります。



 スティーヴン・キングの短編集『夕暮れをすぎて』は順調に本日読了しました。どれもひいき目なしに良かったのですが、「ウィラ」と「ハーヴィーの夢」、「かれらが残したもの」が個人的にはベストであったかな。
 「ウィラ」は懐かしき《ミステリー・ゾーン》の一編と称しても疑いない程ですし、「ハーヴィーの夢」は足許が不安定な大地に立って万華鏡を覗いているみたいな気分にさせられる。レイ・カーヴァーの作風にも通じる作品ですが、こちらの方が不安感もおぞましさも空虚さも、そうして作品の密度もはるかに優っています。
 「かれらが残したもの」については……ちょっと語りたい気分でもあるので、明日にお話しさせていただこう、と思います。宜しいですね? (ネタは保存食にもなる!)◆

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