第1021日目 〈イザヤ書第39章:〈バビロンからの見舞客〉withS.キング「彼らが残したもの」を読みました。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第39章です。

 イザ39:1-8〈バビロンからの見舞客〉
 ヒゼキヤ王の病が回復したと聞いて、バビロニアから見舞いの品が使節によって届けられた。王は有頂天になり、使節に宮殿をくまなく案内した。
 イザヤは見舞客のあったことを知ると、王の許へ出掛け、なにを話し、なにを見せたのか、と訊ねた。王はすべてを見せた、財宝もすべて見せた。と告白した。
 預言者は王を詰った。「万軍の主の言葉を聞きなさい。王宮にあるもの、あなたの先祖が今日まで蓄えてきたものが、ことごとくバビロンに運び去られ、何も残らなくなる日が来る、と主は言われる。あなたから生まれた息子の中には、バビロン王の宮殿に連れて行かれ、宦官にされる者もある。」(イザ39:5-7)
 王はイザヤの言葉をありがたく思った。かれは自分が王位に在るうちは国が平和に保たれ、安定が続くと思うていた。

 平和と安定が保たれる━━それはヒゼキヤ王の確信であったか、希望であったか。或いは、「そうであればいいな」という程度のものであったのか。それは定かでないけれど、列王記と歴代誌の記事を見る限りでは、結果的にその希望は現実となったわけです……。
 王下20:12-19の併読を願いたく存じます。なお、本章を以て第一イザヤが終わります。



 昨日読み終えたばかりなスティーヴン・キングの短編「彼らが残したもの」は、もし自分がなる一冊を編む機会あれば、是が非でも収録したい作品。初出は『十の罪業BLACK』、エド・マクベイン編の分厚いアンソロジーでした(創元推理文庫)。  本作は、解説で風間賢二の指摘するようにいまやアメリカのトラウマとなった“9.11”を題材にした短編です。あの事件以後、なにをどう語るか、あらゆる意味合いで技芸が求められるようになった感がありますが、キングのこの短編もその例に洩れない一編。  <声>に従ってあの日の惨事を免れた主人公の部屋に、同僚の遺品が出現するようになった。それは棄てても、戻ってくる。そのうちの一品を譲ったマンションの知り合いが<泣きを見た>ことで、かれは自分が為すべきことを始める。━━というのが大まかな粗筋ですが、いや本当にわたくしはこうした作業が不得手ですね。  ちょっと不気味だけれど、とても感動的。終始漂う物静かな雰囲気も魅力ですが、やはりこの短編を支配する調子は、生き延びたことへの罪悪感と孤独感ではないか。それだけに、ほのかに光差す幕切れと、その直前の、死んだ同僚の未亡人と交わす淡々とした会話に安堵させられるのです。が、鮮やかな印象を残すその部分は、ぐさりと心の奥に突き刺さってくる部分でもあります。  “9.11”後の世界をどう語るか、あの事件をどう扱うか。あれから10年が経つ現在でもなかなか道筋の見えてこない状況ですが、本作はそれに対する一つの解答であり、里程標といえるのではないか。そう思うことであります。◆

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