第1036日目 〈イザヤ書第52章1/2:〈主は王となられる〉withびっくり仰天。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第52章1/2です。

 イザ52:1-12〈主は王となられる〉
 首に掛けられた縄の結び目をほどき、奮い立って力をまとい、輝く衣を身にまとえ、シオンよ、聖なる都エルサレムよ。主はいう、ただ同然で買われたあなたたちは銀によらずに買い戻される、と。あなたたちを買った支配者はわたしを罵るが、それによって却ってあなたたちはわたしを知るようになる。
 良き知らせを告げる者が、彼方此方をめぐって平和を告げ、救いを告げる。そうしてシオンに、あなたの神は王になられた、と告げ知らせる。それを聞いてあなたたちは歓喜し、わたし主なる神がシオンへ帰還するのを見る。
 「歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ。/主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。/主は聖なる御腕の力を/国々の民の目にあらわにされた。/地の果てまですべての人が/わたしたちの神の救いを仰ぐ。」(イザ52:9-10)
 わが民よ、捕囚の地バビロンを立ち去り、シオンへ帰ろう。なににも触れるな、汚れるから。身を清めよ、主の祭具を担う者。「あなたたちの先を進むのは主であり/しんがりを守るのもイスラエルの神だから。」(イザ52:12)

 捕囚の地を急いで出る必要も、逃げ去る必要もない。王となった主が自らの民をシオンへ導いてゆくのだから。━━そのメッセージがどれだけ、バビロニア各地に散ったユダの民を慰め、心強くさせたことであろうか。これがずっと歳月を経て、いわゆるシオニズムの温床になったのか、と思うと、心の揺り動かされる強い力を感じます。
 いまの日本人がかれらと同じようなディアスポラ(離散)を強いられたとしたら、どうなるのであろう? 今日のわれらに、第二次大戦後にユダヤ人が達成させた新国家建設を希求する原動力となるもの、魂を突き動かすものが、果たしてあるのだろうか? そんなことを、この章のノートを作りながら、ふと、考えてしまいました。
 わたくしはこの章に、捕囚解放後、シオンへ帰る一団が<神と共にある喜び>を自然と吐露する形で歌った、いってみれば歌謡的なものを感じます。はち切れんばかりの喜びが、言葉を伴って口の端に上るとこうなる、という見本といえるのかもしれません。



 す、すまん! いつも通り予約更新をしたつもりが、「下書き」のまま保存されていました。気がついたのがたったいま……さて、<イザヤ書第52章2/2>を予約更新するか、とログインしたら終戦記念日のブログはさっぱり見当たらない。理由は、と探れば斯くも単純であった、という次第であります。
 いまお読みいただいているのが昨日分。随想は先送りとして、このお詫びの文章を急いで書きあげたところです。いや、本当に申し訳ない。こんなことなら昼休みに形態から確認すればよかった。そうすればもっと早い時間(それこそ8月15日中に)「イザ52:1-12〈主は王となられる〉」をお披露目できたであろうに……。
 まあ、過ぎたことは仕方ない。とはいえ、本当に、読者諸兄には申し訳ないことをしました。ここに謹んでお詫び申しあげます。◆

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