第1037日目 〈イザヤ書第52章2/2&第53章:〈主の僕の苦難と死〉with山村修『増補 遅読のすすめ』を購入しました。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第52章2/2と第53章です。

 イザ52:13-53:12〈主の僕の苦難と死〉
 主はいう、わが僕は栄える、と。この世に生きた誰よりも高く上げられ、その誰よりもあがめられる。なのに、かれの容姿は損なわれ、そこに人の子としての面影はない。この人は━━主の僕は主の前に育った。見るべき程の容姿は持たず、人々から侮蔑され、見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。
 が、その痛み、その病は、本来ならわれらが負うはずだったもの。すっかり思い違いをしていた。われらはかれが主の手にかかって打たれ、苦しんでいるものとばかり思うていたのだ。しかしそうではなかった。かれが刺し貫かれたのはわれらの犯した罪のゆえだった。われらが主に背き、罪を重ねたがために、かれはその身に咎を受けたのだった。それにより、却ってわれらには平和が与えられ、傷が癒されたのである……。
 「わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方向に向かっていった。/そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。」(イザ53:6)
 ━━かれは苦役を課され、うずくまり、口を開かなかった。やがて捕らえられ、裁かれ、命を奪(と)られた。果たして、かれと同じ時代を生きたうちで誰が、自分たちの犯した罪ゆえに主の僕たるかれがこの地上から断たれることに、思いを巡らせたであろうか。かれは正しい人であったのに、その墓は神の目に悪と映ることを行い続けた者らと一緒にされ、あろう事か、かれは富める者の隣へ埋葬された。
 「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/かれは自らを償いの献げ物とした。/彼は、子孫が末永く続くのを見る。/主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。
 彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。/わたしの僕は、多くの人が正しいものとされるために/彼らの罪を自ら負った。/それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。/かれが自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。/多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」(イザ53:10-12)

 お読みになって推察できるように、これはメシア預言に他なりません。「第二イザヤ書」のなかでも最も崇高で感銘深い章。玩味しつつ幾度も繰り返して、じっくりゆっくりお読みいただければ、と、さんさんかは望みます。
 イエスの最後を予見したような内容であることもあり、できれば併せて福音書にも目を通していただけると幸いです。
 なお、この第53章(第4/最後の神の僕の歌)はジークフリート・ヘルマンに拠れば、初期の教会は聖金曜日の聖書朗読に本章をテキストとして読んでいた由。わたくしのまわりにはちょっとキリスト者がおりませんので確認できませんが、そうであってまったくおかしくない章であります。
 ヘルマン曰く、「先入見なしに本文を読む者は、とりわけ最後の神の僕の歌に、イエス・キリストの苦難と死が預言的な仕方で予見されていると信じる。エチオピアの宦官の物語(使8:26-40)に支えられて、初代教会はイザヤ書第53章をイエスの苦難と死に関係づけ、これを『わたしたちの罪のため』(53:5)という代理的苦難としてつかんだ。そこでイザヤ書53章は、聖金曜日の聖書朗読のテクストとなったのである」(『聖書ガイドブック』P128 教文館)と。
 いずれにせよ、美しい章です。



 これを、出勤前の時間にPCに向かってぱこぱこ打ちこんでいます。朝日が昇る様子を見ながら聖書のブログを作成、更新するのは、気持ちの良いものです。もっとも、時間に追われることは否めませんが……。ヤエル・ナイムの『ニュー・ソウル』がまたぴったり合うんだ。
 そういえば昨日、山村修の『増補 遅読のすすめ』を購入しました。ちくま文庫、今月の新刊。何度か図書館で借りてきては読み耽り、ブックオフや古書店で稀に見掛けるたび迷った本でしたが、こうして文庫となって手軽に、いつでも読めるようになったのはうれしいことです。増補、とあるように、元版の単行本に雑誌に掲載されたままだった書評なども加えられて楽しみが倍増した一冊になっていました。まぁ、図書館でコピーして既に読んだものも混ざっているのですが、これは個人的なことでありますからみなさんは無視してください。これから、じっくり読みます。◆

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