第1043日目 〈イザヤ書第58章:〈神に従う道〉with田山花袋『温泉めぐり』を明日から読もう。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第58章です。

 イザ58:1-14〈神に従う道〉
 神に従う道とは主の選ぶ正しい断食によって示される。あなたたちが<断食>と呼ぶ行為は本道から著しく逸れたもので、それがためにあなたたちの声が天で聞かれることはない。
 断食とは苦行ではない。主の選ぶ正しい断食とは、「悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること」(イザ58:6)であり、さらには、「飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと」(イザ58:7)である。
 そうすれば、あなたたちの光は曙光のように射し初めて闇を裂き、あなたたちが抱く傷はたちどころに癒される。あなたたちが訴え、求めれば、主はそれに応える。主は常にあなたたちを導き、主の栄光があなたたちを守る。主により、あなたたちは潤された園、水の涸れることなき泉となり、焼けつく地で喉の渇きを癒し、肉体へ力を与えてくれる。
 安息日を守り、主の聖日を尊び、その日はしたいことをするのを慎むならば、あなたたちは主を喜びとするだろう。そのとき主は、あなたたちに父祖ヤコブの嗣業を享受させ、地の聖なる高台を支配させる、と宣言する。

 「あなたの光は、闇の中に輝き出で/あなたを包む闇は、真昼のようになる。」(イザ58:10)

 <断食>とは特定の日、特定の期間は食事をするのを控えることですが、なぜそんなことをするのか、といえば、ここでいう<断食>が罪を贖うための行為であるためです。罪を自覚し、主に祈り、悔い改める行為が断食の本道であり、その名の下に苦行することが目的ではない、というのを本章ではいうているわけです。
 もっとも、断食という行為そのものと結びつかぬ暮らしを送っているわれらにしてみれば、正直なところ、理解がわずかながら及ばぬ部分を孕んだ章でもあるのですが、それは致し方ないところかもしれません。それがためか、今回が初めてではないけれど一日一章の日課を破って読むこと二日を費やしてみても中途半端な、漠然とした理解しかできなかったことを、正直に告白しておきます。むろん、だからというて、決してノートを疎かにしなかったことだけは小さな声でつぶやいておきたい、と思います。
 昨日のブログに続いて安息日を守ることが主の口からいわれていますが、本章では他に、「聖日」という言葉が出て来ます。両者は等しいと考えて差し支えありませんが(ex;出20:8「安息日を心に留め、これを聖別せよ」)、聖なる会合の行われる日を総称して「聖日」と呼んでもいた由。「ネヘミヤ記」では両者が別物として語られていました(ex;ネヘ10:32)。



 山村修『増補 遅読のすすめ』並びにS.キング『ドランのキャデラック』読了。漫然と明日から読む本はなににしようかな、と書架を探っていたら、田山花袋『温泉めぐり』(岩波文庫)に目が留まり、今朝CSで観た角館と夏瀬温泉の情景を思い出し、久々に棚から引き出して寝っ転がってページを繰り始めました。
 最初に出てくるのはわたくしにとっても馴染み深く、懐かしい場所でもある伊豆半島のさまざまな温泉である。初版は大正7(1918)年、文庫の底本となった改訂増補版は大正15(1926)年の刊行というから、かれこれ一世紀近く前の作物であるが、その当時とわたくしが知っている1970年代以後の温泉地とはずいぶんと隔たりがあるのを思い知らされるのですが、日本人にはどうやらDNAレヴェルで<温泉>というものに対する憧れと切望が刻印されているらしく、冒頭数十ページを読んだだけでも近郊の温泉地で構わぬから出掛けていきたい情に駆られたことであります。
 上の刊年からおわかりのように、初版と改訂増補版の間には関東大震災が発生、花袋もジャーナリストとして一冊を著していますが、本書の脚注に時折見られる「震災があって以後」云々という表現が、今日の読者にはひときわ身に迫る部分があろうかと思います。が、21世紀のわれら読者が味わうべきは、先にも述べたようなDNAレヴェルで刻みこまれた温泉への憧れと切望を改めて実感することなのかな、と考えたりもするのでした。
 仕事の行き帰りは勿論、自宅でもわずかながら時間を作るよう心掛けて、田山花袋『温泉めぐり』を明日から読むことに決めた。わたくしは読むのが遅いのでこれを読了するのにどれだけ時間がかかるかわかりませんが、もしかしたら、これがこの夏最後のアヴァンチュール的読書の最後になるかもしれません。気が早いかな?◆

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