第1046日目 〈イザヤ書第61章:〈貧しい者への福音〉withまっとうな生活。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第61章です。

 イザ61:1-11〈貧しい者への福音〉
 主がわたくし(第三イザヤ)に油を注いだのは、嘆く人、貧しい人へ良い知らせを告げようと遣わすためであった。
 主が恵みを与える年、神が報復をする日を告げて、シオンのゆえに嘆いている人々は、イスラエルのために家畜の世話をし、農作業に従事する異邦の人々から、<正義の樫の木>と呼ばれ、<主の祭司>と呼ばれるようになる。かれらは廃墟を建て直し、興し、代々の荒廃の跡を新しくする。
 主はまことを以てシオンのゆえに嘆く人々の労苦に報い、かれらと永久の契約を結ぶ。かれらは諸国に、子孫の代まであまねく知られ、かれらを見る者はすべて、かれらが主の祝福を受けた一族である、と認めるだろう。
 「大地が草の芽を萌えいでさせ/園が蒔かれた種を芽生えさせるように/主なる神はすべての民の前で/恵みと栄誉を芽生えさせてくれる。」(イザ61:11)

 来たるべき福音を語ってこの上ない喜びにあふれた章です。ただ、小見出しの〈貧しい者〉という語は、ちょっとニュアンスが違うように思う。それは<嘆く人>を意味する、とわたくしは考えます。仮に〈貧しい人〉とするならもう少し言葉を補うべきで、現行のままでは要らぬ誤解を招きかねないのではないか。それは、岩波版の註釈が指摘するように「宗教的・倫理的に貧しい人」を指すのである。
 それはさておき。本章に於いて“来たるべき福音”は永遠に続くことが示唆されます。この「第三イザヤ」自体が、未来のエルサレムを語って主の栄光を讃美する性格を持つ部分である以上、それはじつに首肯できる内容、メッセージといえるのではないでしょうか。
 その福音が訪れる日、諸国の民、異邦の民が主の民イスラエルを仰ぐ。有為転変を味わったイスラエル(シオンのゆえに嘆く人々)が受ける、永遠の喜びの具現(イザ61:7「あなたたちは二倍の恥を受け/嘲りが彼らの分だと言われたから/その地で二倍のものを継ぎ/永遠の喜びを受ける。」)がここでは示されます。
 身も心も引き締まるような、きりっ、とした章である、とわたくしは読みました。



 ブラームスの弦楽六重奏曲を聴きながら、お昼寝をむさぼっていたさんさんかです。
 今日は病院で順番待ちをしている間を除いて、本を読みませんでした。なんと奇妙な一日! 昨日日附が変わる頃に帰宅したせいで起床時間も遅くなったせいか、終日うつらうつらしていて頭も重く、怠さばかりを感じる……ぬるま湯に全身を浸して何時間もいるような感じ、とでもいえばいいのかな。
 本を手に取るときはあった。が、すぐに欠伸が出て目蓋が塞がり気味で、じわじわと眠気が襲ってくる。たいていは退けることができたが、負けた結果が前述の昼寝であったわけです。
 花袋の『温泉めぐり』の読了は予定よりずれ込みそうだ。聖書のノートもやっとの事で仕上げられた。キングの短編集は新しいのが既にカバーもつけて待機中(『いかしたバンドのいる街で』文春文庫)だが、開かれることはなかった。机に向かっても窓から外をぼんやりと眺めるばかり、おまけにその外は天気がぐずつき気味で心身の怠さに拍車をかけてくれそうな様子だ。
 こんな一日があってもいい、と以前なら嘆息するところだが、いまはもう“以前”ではない。やはりふだんと同じようにして(というのは、朝早くに起きてきちんと三食を摂り、日附けが変わった頃に床へ就く、という生活周期である)休みも過ごさないと、アカンのかな。ここまで生活周期がまっとうな生活というのは、よくよく考えてみたら、不動産会社に勤務していた時分以来ではなかろうか。
 これがまっとうな生活である、とわかっていても、心の底からその“まともさ”を実感し、体がそれに合わせて否応なく作り替えられて、あんがいそのパターンが清々しく、健康であることを喜ばしく思っていたなんて、こんな風に生活リズムが崩れてみて初めてわかることなのかもしれないな、などと思う。
 ああ、お天道様ってありがたいね!◆

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