第1051日目 〈イザヤ書第66章1/2:〈栄光の顕現〉1/2withいまいったい何冊並行して読んでいる?〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第66章1/2です。

 イザ66:1-17〈栄光の顕現〉1/2
 主の御手は僕たちと共にある。主の怒りは敵に臨む。
 わたしたちの主は苦しむ人、貧しい人、霊の砕かれた人、御言葉におののく人を顧みる。対して、主は偽りの献げ物をささげ、好かぬ人を打ち、忌むべき偶像を讃える人のことは顧みない。主はかれらを思うがままにさせ、放置する。かれらが危惧することを、主は実現させる━━恥を受けたかれらは、主により都で裁かれ、報いを受けて声をあげることだろう。
 母の胎から生まれたイスラエルの民は、エルサレムといっしょに喜び、歌い、躍り、祈れ。これについて、主は斯くいう、━━
 「見よ、わたしは彼女に向けよう/平和を大河のように/国々の栄えを洪水の流れのように。/あなたたちは乳房に養われ/抱いて運ばれ、膝の上であやされる。/母がその子を慰めるように/わたしはあなたたちを慰める。/エルサレムであなたたちは慰めを受ける。/これを見て、あなたたちの心は喜び楽しみ/あなたたちの骨は青草のように育つ。/主の御手は僕たちと共にあり/憤りは敵に臨むことが、こうして示される。」(イザ66:12-14)
 主は火と共に来、主の戦車はつむじ風のように来る。主は火を以て裁きに臨み、剣を振るってすべての悪なる者を討つ。「園に入るために身を清め、自分を聖別し/その中にある一つの者に付き従い/豚や忌まわしい獣やねずみの肉を食らう者は/ことごとく絶たれる、と主は言われる。」(イザ66:17)

 明快なことこの上ない章であります。主の御手によって民は慰みを受け、すくすくと育ってゆく。が、反逆する者にはこの限りではない。……斯くして民の上に主の栄光は顕現し、注がれ、祝福となる。特に引用もした、「母がその子を慰めるように/わたしはあなたたちを慰める」や「主の御手は僕たちと共にあり/憤りは敵に臨む」などという聖句は、すこぶる良いと思うのであります。これらを含めて、本章を、幸福な一章とわたくしは読みました。
 なお、「イザヤ書」は本章を以て終わりとなります。しかしながら、このまま終わらせるのがなんとなく惜しくって、この最終章は二日に分けてお届けいたします。いちど仕上がったノートを図書館で直していたら、なんとなくこんな流れになって、内容的にも分量的にもちょうどよさそうだったので、こんな処置を取ることにしました。御寛恕願います。



 ちょっと「エレミヤ書」の予習をしておこうと思って、図書館で木田献一著『エレミヤ書を読む』(筑摩書房)を借りてきました。明日からゆるゆる読み進めるつもり。「イザヤ書」の轍は踏むまい、と堅く誓っているのですが、どうなることやら……というところです。
 実は旧約聖書の内容を、歴史に絡めてわかりやすく説いた本はなかなか少ないのですが、それだけに樋口進著『よくわかる旧約聖書の歴史』(日本基督教団出版局)はその書名を偽ることのない一冊で、以前から某書店の棚にあるのを、買おうかどうしようか、と迷っていたところ、図書館の歴史書のコーナーにあるのを偶然見附け、勇んで借りてきた一冊であります。他に、大島末男著『カール・バルト』(清水書院)を借りました。
 しかし、わたくしはいま何冊の本を並行して読んでいるのだろう。あまり考えたくないが、それ程割くことのできない貴重な時間をやり繰りして、一冊ずつ片付けてゆく。倉田卓次氏いうところの<並行的読書法>ですね。氏の著作(『裁判官の書斎』シリーズ)も図書館で借りて、全冊ゆっくりと、一つ一つの文章を味わいながらゆっくり咀嚼しつつ、終日読み耽りたいのですが、そんな希望がかなうのはいつのことだろう。まこと、労働しながらの読書は意思の力が求められます。
 来月、亡き婚約者の墓参りに出掛けます。◆

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