第1094日目 〈エレミヤ書第6章:〈エルサレムの攻城〉with去来する苦い昨日を(短歌風に。)〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第6章です。

 エレ6:1-30〈エルサレムの攻城〉
 ベニヤミンの人々はエルサレムから避難して、テコアの町で角笛を吹き鳴らせ。そうして、ベト・ケレムの丘で狼煙をあげよ。北からの災いと破壊が迫っていることを国中へ伝えるために。主はいった、わたしは爛れた行いに耽った娘シオンを滅ぼす、北からの敵はお前を包囲して昼夜の別なく攻撃を仕掛けてくる、と。
 万軍の主はかれらを支持し、自分の民を懲らしめようとする。主は、エルサレムは罰せられるべき都だ、という。都からは悪が尽きることなく湧き出し、不法と暴力の叫び声が絶え間なく聞こえてくる。エルサレムを見舞う病と傷はいつだって主なる神の前にある。主はこうもいった、「エルサレムよ、懲らしめを受け入れよ。/さもないと、わたしはお前を見捨て/荒れ果てて人の住まない地とする」(エレ6:8)と。
 「万軍の主はこう言われる。/『ぶどうの残りを摘むように/イスラエルの残りの者を摘み取れ。/ぶどうを摘む者がするように/お前は、手をもう一度ぶどうの枝に伸ばせ。』」(エレ6:9)
 嗚呼、誰がこの警告を聞き入れられようか。かれらはみな聖別された主の民なのに、主の言葉に耳を傾けることができないとは……。それというのもかれらが主の言葉を侮って考えているからだ。わたしエレミヤはもう耐えられない。わたしに臨む主の怒りはあまりに激しく、それを受け止めるわたしはもう疲れてしまった。主はいう、それをすべて吐き出してしまえば、ユダの民は老若男女、身分の貴賤にかかわりなく、みな捕らえられる。人のみならず田も畑も、家も町も、この大地の上にあるものはいずれもすべて。
 さまざまな道に立って四囲を眺めよ。むかしからの道に問いかけよ。どれが幸いに至る道か、よく見極めてそこに魂のやすらぎを求めよ。そうわたしエレミヤは民に訴えた。しかしかれらは拒絶した。自分たちのために見張りを立てて、敵が来たら角笛を吹き鳴らせ。そうわたしはエレミヤはいった。しかしかれらは拒絶した。
 かれらの企みが実を結び、主はあらかじめ構想していた未来を実現させるため、この地に災いをもたらす、と宣言した。自分たちの犯し続けてきた悪が身を結んだ結果がこれである、と見せしめるために。もはや如何なる悔い改めも通用しない。
 斯くして主はシオンの滅びを告げた。民は呆然とし、嘆いた。が、もはや万軍の主の意思は翻せない。主がかれらを見捨てられたからだ。……。

 「北からの敵」がスクテア人たちなのか、新バビロニア帝国なのか、判然としません。が、主が来たる終末に向けてシオンを、ユダを、北から迫る敵の手にゆだねることにしていたのは前後の章から明らかであります。ここでの主の言葉が現実のものとなったとき、人々はどんな面持ちでそれを見、どんな心境で自分たちの過去の所行を悔いたでしょうか。そうして、主とエレミヤの言葉を、どんな気持ちで思い出したのでしょうか……。


 去来する苦い昨日を哀しんで、さらぬ面影をひたぶるに追う。◆

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