第1102日目 〈エレミヤ書第13章1/2:〈麻の帯とぶどう酒のかめ〉with生田耕作訳A.ブルトン『超現実主義宣言』再読計画〉 [エレミヤ書]
エレミヤ書第13章1/2です。
エレ13:1-17〈麻の帯とぶどう酒のかめ〉
主がエレミヤにいった。麻の帯を買ってきて、洗わないでそのまま腰に締めよ、と。そうしてユーフラテスへ行って、その帯を岩の裂け目に隠しておけ、とも。預言者はその通りにした。多くの歳月が流れて、再び主が、ユーフラテスへ行ってあのときの帯を取り出せ、と命じた。帯はもうぼろぼろに崩れていた。
主がいった、━━
これがユダとエルサレムの罪である。このようにしてわたしはかれらを罰する。かれらがわたしの声に聞き従わなかったからだ。
続けて、主がいった、━━
甕(かめ)にぶどう酒を満たせ。民が諾おうと逆らおうと知ったことではない。わたしは甕に満たされたぶどう酒を以て、ユダとエルサレムの人々を誰彼の区別なく酔わせて、かれらを滅ぼす。惜しまず、躊躇わず、憐れまず、かれらを打ち砕く。
エレミヤが民に語りかける、耳を傾けよ、━━
「わたしたちが聞かなければ/わたしの魂は隠れたところでその傲慢に泣く。/涙が溢れ、わたしの目は涙を流す。/主の群れが捕らえられて行くからだ。」(エレ13:17)
ユーフラテスはあまりに遠い。エルサレムから、或いはアナトトからも。場所によって異なるけれど、地図を開いて計ってみても、だいたい800から1,000キロぐらいは離れている。ここでいう「ユーフラテス」の原語は「ペラート」Perath、ヘブライ語である。
エルサレム、乃至はアナトトからペラートまでの距離を、エレミヤは都合2回往復した、と「エレミヤ書」は伝える。ユーフラテスが正しいというならば、エレミヤはその距離を往復したことになる━━単純に倍した距離を。
が、腰に帯を締めてそれを岩の裂け目に隠せ、とは、一種の象徴行為である、とさまざまな注釈書は説く。象徴行為とは、この場合、該当するユダの人々の前で行ってこそ効力を発揮するもの。つまり、もしユーフラテス川とエルサレム/アナトトをエレミヤが往復した、というならば、ユダの民もかれといっしょになって移動していなければまったく意味を持たないものであるわけだ。
ということは、ペラートをそのままユーフラテスと解釈するのには、無理が生じることになる。聖書学者の一部はこの点を以てユーフラテス説を退け、ペラートとは即ちワディ・ファーラーである、と考える。ワディ・ファーラーはアナトトの北東約5キロの場所にある町。この距離であれば、もし民がいっしょになって移動していても差し支えない位置にある、といえそうだ。
腰帯について、ティンデル『エレミヤ書・哀歌』を執筆したR.K.ハリソンはこういう、「腐った腰帯は高ぶったユダが偶像崇拝のゆえに謙虚にされ、罰せられることを示している」と(P106 富井悠夫・訳 いのちのことば社 2005)。
ブックオフ・オンラインにて生田先生の訳書を数点入手。この機会に、ブルトン『超現実主義宣言』(中公文庫)を読み直そう、と考えている。もうあれから20年近くが経つんだな……。◆
エレ13:1-17〈麻の帯とぶどう酒のかめ〉
主がエレミヤにいった。麻の帯を買ってきて、洗わないでそのまま腰に締めよ、と。そうしてユーフラテスへ行って、その帯を岩の裂け目に隠しておけ、とも。預言者はその通りにした。多くの歳月が流れて、再び主が、ユーフラテスへ行ってあのときの帯を取り出せ、と命じた。帯はもうぼろぼろに崩れていた。
主がいった、━━
これがユダとエルサレムの罪である。このようにしてわたしはかれらを罰する。かれらがわたしの声に聞き従わなかったからだ。
続けて、主がいった、━━
甕(かめ)にぶどう酒を満たせ。民が諾おうと逆らおうと知ったことではない。わたしは甕に満たされたぶどう酒を以て、ユダとエルサレムの人々を誰彼の区別なく酔わせて、かれらを滅ぼす。惜しまず、躊躇わず、憐れまず、かれらを打ち砕く。
エレミヤが民に語りかける、耳を傾けよ、━━
「わたしたちが聞かなければ/わたしの魂は隠れたところでその傲慢に泣く。/涙が溢れ、わたしの目は涙を流す。/主の群れが捕らえられて行くからだ。」(エレ13:17)
ユーフラテスはあまりに遠い。エルサレムから、或いはアナトトからも。場所によって異なるけれど、地図を開いて計ってみても、だいたい800から1,000キロぐらいは離れている。ここでいう「ユーフラテス」の原語は「ペラート」Perath、ヘブライ語である。
エルサレム、乃至はアナトトからペラートまでの距離を、エレミヤは都合2回往復した、と「エレミヤ書」は伝える。ユーフラテスが正しいというならば、エレミヤはその距離を往復したことになる━━単純に倍した距離を。
が、腰に帯を締めてそれを岩の裂け目に隠せ、とは、一種の象徴行為である、とさまざまな注釈書は説く。象徴行為とは、この場合、該当するユダの人々の前で行ってこそ効力を発揮するもの。つまり、もしユーフラテス川とエルサレム/アナトトをエレミヤが往復した、というならば、ユダの民もかれといっしょになって移動していなければまったく意味を持たないものであるわけだ。
ということは、ペラートをそのままユーフラテスと解釈するのには、無理が生じることになる。聖書学者の一部はこの点を以てユーフラテス説を退け、ペラートとは即ちワディ・ファーラーである、と考える。ワディ・ファーラーはアナトトの北東約5キロの場所にある町。この距離であれば、もし民がいっしょになって移動していても差し支えない位置にある、といえそうだ。
腰帯について、ティンデル『エレミヤ書・哀歌』を執筆したR.K.ハリソンはこういう、「腐った腰帯は高ぶったユダが偶像崇拝のゆえに謙虚にされ、罰せられることを示している」と(P106 富井悠夫・訳 いのちのことば社 2005)。
ブックオフ・オンラインにて生田先生の訳書を数点入手。この機会に、ブルトン『超現実主義宣言』(中公文庫)を読み直そう、と考えている。もうあれから20年近くが経つんだな……。◆
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