第1107日目 〈エレミヤ書第16章2/2:〈新しい出エジプト〉withまた寝ちまったぜ、いやぁまいったね。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第16章2/2です。

 エレ16:14-21〈新しい出エジプト〉
 かつて人々は主についてこういった、「イスラエルの人々をエジプトから導き上られた主は生きておられる」と。
 やがて人々は主についてこういうだろう、「イスラエルの子らを、北の国、かれらが追いやられた国々から導き上られた主は生きておられる」と。
 主はイスラエルの子らを、かれらの先祖に与えた土地へ帰還させる、という。
 主は民が犯し、重ねた罪と悪を倍にして民へ報いる、という。
 国々が地の果てからあなたの御許へ来てこういうであろう、と、わたしはいう。われらの先祖が自分のものとしたのは、むなしく、無益で、偽りのものであった。いったい人間に<神>が造れようか、そんなものが<神>であろうか。
 それゆえに、わたしエレミヤは、今度こそ民に告げよう、わたしの手、力強いわたしの業を。民は、わたしの名が主であることを知るようになる。

 主の言葉、━━
 「わたしの目は、彼らのすべての道に注がれている。彼らはわたしの前から身を隠すこともできず、その悪をわたしの目から隠すこともできない。」(エレ16:17)

 まずはこの数日、一章を分割してお届けしていることにお詫び申しあげる。単純に原稿のストックの状況によって、斯様な調整がされているのだ。あとは、ノートを作る時間がどれだけあるか、どれだけの時間を割くことができるか、にかかってくるのだが、それは読者諸兄にとってはどうでもよい類の話であろう。本当をいえば昨日と本日の分は一日で済ますはずだったのだが、以上のような理由によりこうなっている次第。
 さて。
 〈新しい出エジプト〉、これは勿論、未来の預言である。バビロニアに捕囚として連行されていった民は、かつてかれらの先祖が主(とモーセ)に導かれてエジプトを脱出して“乳と蜜の流れる土地”カナンを目指した如く、捕囚として連れられていったバビロニアの地から民は再び主の導きによってかつてのカナン即ちユダを、いまは廃墟となっているかつての王都エルサレムを目指す、というので〈新しい出エジプト〉なわけだ。後半が偶像の存在理由について疑義を投げているのも、新しい出エジプトの預言をくっきりと浮きあがらせる効果を持つ。それにしても、<いったい人間に<神>が造れようか、そんなものが<神>であろうか。>とは、じつに考えさせられる訴えである。
 ここは、あざやかであたたかな、希望の曙光に彩られた一編である。激烈な調子の言葉が続いたあとということもあって、一息つける部分であるのは間違いないだろう。



 上記を書いてここに至るまで約30分が経過。その間、椅子に座って天井を見あげながら寝てしまっていました。疲れているのかな。
 明日は休み、でも、スタバまで歩いて本を読んで(キング「いかしたバンドのいる街で」!)、聖書のノートを取る、というまったくさえない、かつまったく変わらない休みを過ごすのだ。
 誰か、このサイクルを脅かしてくれ。◆

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