第1110日目 〈エレミヤ書第19章&第20章1/2:〈砕かれた壺〉withS.キング「いかしたバンドのいる街で」を読了しました。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第19章と第20章1/2です。

 エレ29:1-20:6〈砕かれた壺〉
 主がいった、━━
 エレミヤよ、まず陶器師のところに行って壺を買え。それから民の長老と長老格の妻子を連れて、陶片の門を出たそばにあるベン・ヒノムの谷に行け。そこでかれらに、わたしの言葉を告げよ。
 わたしエレミヤはその通りにした。するとベン・ヒノムの谷で主の言葉がわたしに臨んだ。主の曰く、━━
 この場所にわたしは災いをもたらす。それを聞く者は耳鳴りを覚えるだろう。災いが降るのは、民がわたし以外の神に香を焚き、献げ物をささげたためだ。そのようなことをしなさい、と、教えたことも命じたこともない。
 斯様な行為のゆえに、いまはベン・ヒノムの谷と呼ばれるこの場所は、やがて殺戮の谷と呼ばれるようになる。わたしはユダとエルサレムの策略を、この場所で打ち砕く。「わたしはこの都を恐怖の的とし、嘲られるものとする。通りかかる者は皆、恐怖を抱き、その打撃を見て嘲る。彼らの敵の命を奪おうとする者が彼らを悩ますとき、その悩みと苦しみの中で、わたしは彼らに自分の息子や娘の肉を食らい、また互いの肉を食らうに至らせる。」(エレ19:8-9)
 エレミヤよ、買ったその壺をみなの前で砕き、こういえ。この壊れた壺はもう元には戻らない。ユダの民とエルサレムの家もまた然り。死者となった民は誰一人としてきちんと埋葬されない。その骸はこの場所ベン・ヒノムの谷、即ちトフェトに投げ捨てられる。わたしはエルサレムも同じようにする。エルサレムの家々、ユダの王の家はすべてトフェトのようになる。
 ━━これがベン・ヒノムの谷でエレミヤに臨んだ主の言葉である。
 預言者は都に帰り、神殿の庭で、集まった民を前にして、これらの主の言葉を語った。その際、件の壺は砕かれたのであろう。以上、第19章。
 その様子を、神殿の総監督である祭司、イメルの子パシュフルが見聞きしていた。かれはエレミヤを打ち、投獄した。翌日解放された預言者はパシュフルに向かって、主はお前を“<恐怖>が四方から迫る”と呼ぶ、といった。
 続けてエレミヤはいった、━━
 お前は主によって<恐怖>に渡される。お前の親しい者はみな、<恐怖>の剣によって倒れる。お前はそれを目撃しなくてはならない。<恐怖>の真の名はバビロン。わたしは国の富、人の富をいずれもかれらの手に渡し、生き残った者みなを捕囚としてバビロンの手に渡す。パシュフルよ、お前も一族の者と共に捕らえられ、バビロンへ行く。そうしてその地でお前は死ぬ。以上第20章第1-6節。

 「エレミヤ書」には幾つかの印象的な章や場面、有名な挿話があります。本章での<壺を砕く>、というのもその一つである由。噂に違わず、一読鮮やかな印象を残すところであります。
 エレミヤはバビロニアの台頭と襲来を主の意思と考え、その王ネブカドネツァルを主の意思を体現する存在と捉えてきました。その考えの一端が明瞭に述べられたのが本章であります。
 一つだけ余計な註釈を加えておくと、ベン・ヒノムの谷はユダとベニヤミンの領境に横たわり、ここでかつてアハズ王とマナセ王が自分の子供を焼き殺したことがあります。また、ヨシュアたちによるカナン入植前には先住民がここにモレク神を崇める祭壇を設けていました。斯様な来歴のある場所ゆえに、ベン・ヒノムの谷即ちトフェトを背景として、今日読んだようなお話がされたのであります。



 S.キングの短編「いかしたバンドのいる街で」を読了。正直、あまり楽しめなかった。ここに登場するロック・スターの名前と顔が一致しないこともあるけれど(顔が思い浮かぶ人自体が殆どいない!)、それ以上に致命的だったのは、この作品に関していえば、既に観た『8つの悪夢』で映像化されたドラマの印象が鮮烈で、どうしても読んでいる最中はそちらのイメージに引きずられてしまっていたからだ。そう、自覚はしている。ロックンロール・ヘヴンに迷いこむまでの描写がチトくどいように感じたのも一因か。ごめん、この短編にはまったくといっていい程のめり込めなかったよ。◆

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