第1111日目 〈エレミヤ書第20章2/2:〈エレミヤの告白〉withカラヤン=BPO;ベートーヴェン交響曲第4番を聴いています。(短文)〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第20章2/2です。

 エレ20:7-18〈エレミヤの告白〉
 パシュフルによって投獄されていた夜のことか。

 主により、わたしは惑わされ、わたしは捕らえられた。主よ、あなたの勝ちです。あなたの目論見通り、わたしは周囲から孤絶し、御言葉ゆえに恥と誹りを受ける。
 「主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃えあがります。/押さえつけられておこうとして/わたしは疲れ果てました。/わたしの負けです。」(エレ20:9 ※)
 多くの人の非難する声が聞こえる。味方と思うた人もそうでなく、わたしが失敗するのを待ち構えている。かれらは復讐しようとしている。が、わたしには主が共にいる。それゆえかれらは復讐しようとして却って辱められる。それはとこしえの恥辱である。主よ、わたしにその光景を見させてください。わたしはあなたに訴え、打ち明け、お任せします。
 わたしが生まれた日は呪われてしまえ。母の胎から誕生したその日を祝うてはならぬ。わが父にわたしの誕生を知らせた人は呪われよ。その人は憐れみを知らず、主によって滅ぼされる町のように、朝には助けを求める声を聞き、昼には侵略者たちの鬨の声を聞くだろう。
 「なぜ、わたしは母の胎から出て労苦と嘆きに遭い/生涯を恥の中に終わらねばならないのか。」(エレ20:18)

 ※ex;エレ6:11「主の怒りでわたしは満たされ/それに耐えることに疲れ果てた。」

 これまでに読んだなかで登場したエレミヤの嘆き、或いは告白となんら変わることのない内容ではありますが、わたくしはここに却って純化されたエレミヤの心の内が表現されているように感じます。読者諸兄は如何でしょうか。殊、第7節と第9節(上にダイジェストし、引用した箇所です)には胸を締めつけられるような苦しさがあります。
 しかしながら、自分の出生を呪うまではともかく、誕生を父親に知らせた人まで呪うとは、正直タマッたものではない……と、思うたのだけれど、ここに至ってふと考えを改めた。ここでいう「父」とは、生物学的意味での父親ではなく、むしろ主なる神を指すのだろうか、と。そうであってもおかしくはないのかもしれない。
 こんな風に、PCで清書している段になって、あ、と思い当たることがよくあります。



 カラヤン最後の来日公演に於けるベートーヴェン交響曲第4番を聴いています。こんなに軽やかで優雅なステップを踏むかのような曲だったかな。演奏の極上ぶりはどうだろう。
 仕事から帰って明日も仕事だ、というとき、ベートーヴェンを聴こうという気にはなれない。が、第4番であれば却って活力を充填してくれそうな気がしますね。そう思う。◆

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