第1128日目 〈アバド=BPO;ムソルグスキー管弦楽曲集を聴きました。1/2〉 [ウォーキング・トーク、シッティング・トーク]

 わたくしがクラシック音楽を、自分の好奇心や知識欲を原動力に聴き始めたのは、ムソルグスキーの《展覧会の絵》がきっかけだった。まだ成人して間もない頃だったと記憶する。年の瀬も迫り、都心から勤め人の姿が段々と減りつつあった時分。わたくしは当時通っていた学校に用事があったか、コミケの帰りであったかして、御茶ノ水にいた。その周辺にあったディスク・ユニオンはまだジャンルごとの店舗をあまり持っておらず(明大向かいの楽器屋二階にひっそりとジャズ専門の店舗があった程度ではなかったか)、クラシック館は線路沿いの猫の額程度の広さしかないビルの三階にあった。
 その日、いつものように狭くて急な階段を昇ってクラシック・フロアに立ち寄り、棚を端から端まで物色して、今度はレジカウンターの前に並ぶVOX BOXや当時ようやっと国内でも見られるようになったがまだまだ際物扱いされていたNAXOSのCDを吟味していたときだ。天井のスピーカーからファンファーレを奏でるトランペットが流れてきた。最初はさほど気にも留めなかったのだが、段々とスピーカーから降り注いでくる音楽に、始めは耳を、そうしてすぐに心まで奪われてしまった。
 クラシックを聴き始めてそんなに経っていない当時の自分にとって、それがなんという曲であるかわかろう筈もなく、その演奏がどれだけのものであるのかも判断できない。が、店内に溢れる数多のディスクを漁る手もいつの間にやら機械的な、義務というても過言でないぐらい動きは緩慢となり、すっかり店内に流れるその音楽の虜になってしまった。何気ない風を装い、レジへ近附き、〈NOW PLAY〉と札の付いたそのCDのジャケットを横目で確認した。その作曲家の棚の前に移動して、その曲のCDを探した。どの指揮者のものがいいのか、なんてそんな知識はまだないに等しいから、出来ればいま流れているのと同じ人の録音がいい……そうしてわたくしは同じジャケットのCDを発見した。
 それが、クラウディオ・アバドとロンドン交響楽団がドイツ・グラモフォンに録(い)れたムソルグスキーの《展覧会の絵》だったのである。
 ――と、ここまで書いて唐突に思い出した。それはアバドがカラヤンの後任としてベルリン・フィルの音楽監督に選出された年のことであった。年が明けて放送されたニューイヤー・コンサートで指揮台に立つアバドを見て、そうか、この人の《展覧会の絵》を買って、わたくしはいまベートーヴェンの《第九》とワーグナーの《ヴァルキューレ》(ハイライト盤)と同じぐらいの頻度で聴き倒している最中なのか、と合点したのを、そうだ、いま思い出した。
 余談に過ぎて残りの分量が減ってしまったが、爾来、わたくしにとって《展覧会の絵》はアバド=ロンドン響が第一に来て、それはチェリビダッケ=ミュンヘン・フィルの正規盤が登場してからもちっとも変わらぬ。加えていえば、わたくしのi-Podには《展覧会の絵》がなぜだか六種類入っている。それだけクラシック初心者の当時のわたくしに多大かつ深甚なる影響をもたらした曲であったわけだ。そう、アバド=《展覧会の絵》という構図は潜在意識に刷りこまれて長く尾を引き、無意識にもムソルグスキー作品にアバドの演奏があれば、他のなにを差し置いてもまずはそちらへ向かう、という風になってしまった。
 ところでわたくしは最近まで、アバドの他のムソルグスキー管弦楽曲集は所持していなかった、理由はさておき。それがつい一週間程前、事態は急転換の様子を見せた。半年に一回程立ち寄る中古レコード店があるのだけれど、そこのクラシック・コーナーを端から眺めていたら、アバドがベルリン・フィルのシェフの座に就き、〈ムソルグスキー・パラノイア〉と呼ばれていた時分にDGとSONYへ録音したCDを三枚見出して、それこそ矢も楯もたまらず、財布の中身ともろくろく相談せず、息せき切って(?)買いこんだのだ。
 ……で、じつはここまでが枕なのだけれど、既に予定の分量を超過している。というわけで、1990年代に録音されて発売された、アバド=BPOによるムソルグスキー作品集の感想は、短いものになるけれど、明日のお披露目とさせていただきたく思います。◆

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