第1129日目 〈アバド=BPO;ムソルグスキー管弦楽曲集を聴きました。2/2〉 [ウォーキング・トーク、シッティング・トーク]

 アバドのムソルグスキー、《ボリス・ゴドゥノフ》と《ホヴァンシチナ》は別に機会を作ることにして、やっぱり管弦楽曲に絞った話、というか、感想を認めることにする。
 ロンドン響と録音したムソルグスキーの《展覧会の絵》(DG rec;1981)を、この機会だから久しぶりに聴いた。気を衒ったところがあるわけでもなく、計算を尽くして空中分解するような下ネタめいた効果を狙ったものでもなく、悪くいえば終始安全運転な、驚きや発見とは縁遠い演奏。今日のわたくしが思うことを述べると以上のようなどっちつかずの、どちらかといえば若干醒めた物言いになる。
 そこで今度はベルリン・フィルとの再録音(DG rec;1993)を、プレーヤーのトレイに載せて再生、聴いてみる。改めてその異様なテンションにびっくり。異様なテンション、というのは、なにも狂乱めいている、とかその熱に中(あ)てられて興奮させられる、とか、そんな程度の意味ではなく、勿論そういった点もこの演奏は含んでいるけれど、それ以上に、指揮者の内側から自然と滲み出てくるような自信に溢れているのだ。
 自信? そう、自信だ。世界最高峰のオーケストラをすっかり掌握して自分のオーケストラに生まれ変わらせられた、それこそ阿吽の呼吸を会得して共に愛する音楽をやれるようになった、という自信。それが、この《展覧会の絵》からは感じられる。ベルリン・フィルのシェフに就任して三年目の年に、得意とするロシア音楽、しかもなにやら深い愛着と執着ともいうべき関心を持っているムソルグスキーの代表曲を再録音した、という事実にこそ、アバドの自信と決意を見出せるような気がしてならない。
 実際のところ、これまで同曲異演のなかでわたくしが最もお気に入りにしていたのは、過去にこのブログででも一個の記事にしたチェリビダッケ=ミュンヘン・フィルのEMI盤だけれど、アバドの再録音をようやく架蔵し得たことにより、いまやチェリの地位は脅かされている。処分するなんてことは到底ないが、再生する頻度は段々と低くなってゆくだろう。淘汰、という程大袈裟ではないが、ランク・ダウンは必至だ。それだけわたくしにとって今回のアバド=BPOによる再録音は深く心に残って、いつまでも愛おしんでいたい演奏なのである。
 昨日の反省も生かせず、残りが少なくなった。近頃同時に手に入れた、三枚のアバドのムソルグスキー管弦楽曲集を聴いて、なによりも収穫だ、と思うたのは、《はげ山の一夜》である。
 四つ存在するというこの曲の版についてはwikiなどを参照いただくとして、<原典版>(DG)と<バス・バリトン、児童合唱、合唱と管弦楽のための版>(SONY)いずれもわたくしはとっても興奮させられた。いちばん聴かれるリムスキー=コルサコフ版なんてこれらを前にしたら顔色をなくしてどこかへ逃げちゃうんじゃないか、と思うぐらい。前者はティンパニの炸裂する冒頭部分に仰天、その後はもうひたすら頭を垂れて、悪魔たちのやりたい放題の大宴会を描写した音塊の釣瓶打ちから逃れることも出来ないまま、まんじりともせずに聴いていた。合唱などが入る後者に於いても然りだけれど、単純に興奮度はこちらの方が上かも知れない。合唱が人間の魂に根源的に突き刺さって鼓舞させる、最大限に有効な手段であるのが否応なく納得させられてしまう。もうね、合唱に合わせて悪魔どもの翻訳不能な掛け声を唸り出したくなっちゃうよ。今回いちばんの収穫は、たぶんこの《はげ山の一夜》だろうな。
 以上の二曲を除いてわたくしが気に入ったものは、歌劇《サランボー》から〈巫女たちの合唱〉(DG プラハ・フィルハーモニー合唱団 対訳なし)と歌曲集《死の歌と踊り》(SONY アナトリー・コルチェガ/Bs)である。これらについてもいずれ感想を認めることが出来たら、と考えている。◆


 なんだかいつもよりテンションの落ちたブログになってしまった。ごめんなさい。後日改訂します。□

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