第1130日目 〈文章について、覚え書き。〉 [ウォーキング・トーク、シッティング・トーク]

 空白の一年が終わりを告げ、わたくしはここに帰還した。捕囚から解放され、辛苦の末に“乳と蜜の流れる地”、古にカナンと呼ばれ、かつては聖別された神殿を持つ都を擁する懐かしの故郷、ユダへ70年の後に帰還したイスラエルの民の如く。
 その空白の時代に書き継ぎ、いまは一段落させた長編小説を脇に置いて、ブログの更新に意識を向けてその記事の執筆に勤しむ日々が、再び戻ってきた。が、すぐにわたくしは暗澹たる思いに囚われて、今更ながら失われた/中断された一年を後悔することになる。
 というのも、以前のようなスタイルとテンションで文章を書くのが難しくなってしまったのだ。なんというか、中断以前はもっと自由に、停滞を知ることなく、思うことをなんの苦痛も感じず、表現にさして悩むこともなく、ばちばちキーボードに叩き付けることが出来たように覚えているのだ。キーボードの上で指が、はた、と止まり、うむむ……と呻き声を連れにして彷徨うことは幾度となくあったとはいえ、いま程非道くはなかった……。
 なぜだろう? 一年というもの、なにも書かずに過ごしたのなら話はわかる。しかし、そうではないのだ。既に述べたように、小説を殆ど毎日書いていたのである。書いて消してを繰り返しつつも、愛用する無印良品のB5ノート(ダブルリング・ノート 無地)一ページ分ぐらいの分量は、来る日も来る日も飽きることなく書いていたのである。文章を書く能力それ自体が衰えたとも、ミューズ神に見限られたとも、思えない……。では、なぜ? なにゆえに?
 文章の書き方、小説の書き方なんて類の本を持つ作家なら、異口同音にアドヴァイスする動かし難き事実が、一つある――時には脅迫めいたレヴェルにまで達することも辞さぬ人も、なかにはいたりして。即ち、「毎日書けっ!」だ。いきなり毎日は無理だろうから、週に一日は休むと良い、なんて助言してくれるのは<わが神>スティーヴン・キング。
 それでも闇雲にノートやパソコンに向かい、昨日は4ページ、今日は10行、明日は2ページ、なんて非生産的な行為に勤しむのではなく、書くと決めたからには可能な限り同じ時間に同じ場所で、扉を閉めて、同じ分量を掛け、というのである。そんな機械的なスケジュールを送っていれば、自ずと創作のミューズを味方に付けることが出来る、というのがキングの意見。そうして、小説家といわずエッセイストといわず、世の文筆業者の過半が(口にする勇気はないまでも)体得している技術だ。なにも特別なことではない。漱石だって、トロロープだって、ウォルター・スコットだって、ショウペンハウエルだって、リヒャルト・ワーグナーだって、皆が皆、斯様に能動的にかつ機械的に、己の創作活動を行っていたのだ。太宰でさえ、然りである。わたくしの知る限り、気が向いたときに書く、なんて馬鹿げたことをやっていたのは、<プロヴィデンスの郷紳>H.P.Lぐらいのものだ。
 なぜだろう? 聖書読書ノート、加えて現在粛々とお披露目中のエッセイ群に、今一つわたくしが誇りと自負と責任を抱き得ないのは? 悩む風は見せているけれど、実は答えは出ている(この一言を自然な形で導き出すため、ここまで文字数を費やしたのだ)。
 あくまでわたくしの場合だが、小説とエッセイとでは自ずと文章の書き方に変化が生じる。態度の問題であるやもしれぬ。小説の場合は常に文章を、効果や流れを意識しながら書いているけれど、エッセイの場合は特にそんなこと、考えたこともない。思うところに従ってぶいぶいと文字を埋めてゆくばかりである。
 なぜだろう、と考えた際、一つの可能性として浮上するのが、執筆に用いるツールの問題だ。小説を書く際は専ら――無印良品の例のノート、もしくはコクヨのレポート用紙であるのに対し、エッセイは(レヴューも含めて)パソコンでの執筆が殆どである。いま問題にしている本ブログの場合、聖書の要約はノートだがそれに続く記事への補遺・註記、感想は基本的にパソコンで作成し、最後を締め括るエッセイ部分はパソコン以外で書いたことがあまりない。
 もう少し整理しよう。これまでシャープペンを握ってノートにしこしこ字を綴ってきたのが、ある日突然――以前の習慣に戻っただけと雖も――パソコンで文章を、しかもほぼ決まった分量を書くようになったのだから、感覚が摑めなくて(取り戻せなくて)当然だ、という話である。始めは数行程度の、呟きに毛が生えたぐらいの分量から再開すれば、こうも悩んだりしなくて良かったのかも。でも、ねぇ……もう中断直前と同じようなスタイルと分量で再開しちゃったんだから仕方ないじゃん?
 とにかくわたくしの理想は、<読ませる文章>を書くこと。今風に携帯メールやTwitterで垂れ流されるような文章ではなく、揺るぎなき骨格を備え、知と柔を併せ持った、存在は地味ながら時間に淘汰されることのない、自分がこれまで培ってきた経験と蓄えた知識(教養というと語弊があるかも)を存分に生かした、そんな前時代的といえなくもない文章。そうした文章を書きたい、と希望するわたくしが影響を受け、意識するのが、漢文であり古文であり、幾人かによる翻訳であり、数人の外国人作家/ジャーナリストの文章。そうして、なによりも、聖書の日本語。――とは、あまりにも出来すぎた結論か?◆

 昨日書いたアバドの文章、それへの反省もこめて今日の文章を書きました。□

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